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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

フェドセーエフ・ペトレンコ・E=カサド&多紗於里・中野振一郎・岡本拓也

クラシックディスク・今月の3点プラス3点(2021年5月)

チャイコフスキー「交響曲第6番《悲愴》」

ウラディーミル・フェドセーエフ指揮チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ(旧モスクワ放送交響楽団)

1932年レニングラード(現サンクトペテルブルク)生まれのロシア人マエストロ、フェドセーエフは1974年にモスクワ放響の芸術監督・首席指揮者に就いた。指揮者とオーケストラの関係が半世紀近く、しかも旧ソ連崩壊や組織変更、改称など多くの困難を乗り越えて続いたこと自体、もはや現代の神話といえる。ライナーノートで満津岡信育さんが「そのディスコグラフィの全貌は、ひどくつかみづらいものがある」と指摘されたように《悲愴》もLP、CD、映像を合わせ、6度目なのか7度目なのかカウントしがたいが、とにかく、2019年12月(16&17日、モスフィルム・スタジオ1でのセッション録音)時点の最新解釈だ。


鬼才ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーの後任に選ばれた当時、民族楽器(バラライカ)オーケストラの指揮者から抜擢されたフェドセーエフを〝格下〟とみる人々がいたことが懐かしい。下積みが長かった分、現場処理は卓越以上の神業に達し、長期黄金時代を築くまでに時間はかからなかった。1993年3月、フェドセーエフが珍しく東京都交響楽団へ客演した際に取材、《悲愴》で全曲通しのリハーサルをやらない理由を尋ねた。「長年の指揮経験を通じ、それぞれの楽曲の〝難所〟は把握してきたつもりです。オーケストラの違いは全く関係なく、そこを繰り返しリハーサルしてクリアすれば、全曲は問題なく演奏できます」。


全曲演奏時間が50分を超える今回の《悲愴》。どこ1箇所も無理な力を加えることなく、チャイコフスキーのスコアを作曲家の心情にどこまでも優しく寄り添うように再現する。難所はとっくにクリアされ、オーケストラ奏者1人1人に思う存分弾かせながら、最後は巨大なフェドセーエフの器の中へ、すべてが流れ込んでいく。信頼と愛情に満ちた《悲愴》だ。

(エイベックス・クラシックス)


マーラー「交響曲第7番《夜の歌》」

キリル・ペトレンコ指揮バイエルン国立管弦楽団

ドイツ3大オペラハウスの一角、ミュンヘンのバイエルン国立(州立)歌劇場が同地のバイエルン放送交響楽団、ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団に続いて立ち上げた自主レーベル「BAYERISCHE STAATSOPER RECORDINGS」の第1作。2018年5月28&29日、本拠地ナツィオナル・テアーターで行われた歌劇場管弦楽団のライヴ録音だ。私はたまたま、オーストリアのグラーツで横川朋弥の新作オペラ《金色夜叉》初演を取材した帰途ミュンヘンに回り、29日の演奏を聴くことができた。国内盤発売に当たり、輸入元のナクソス・ジャパンが「レコード芸術」誌2021年6月号に出した広告の一角に、短いリポートを書いた↓


「葛藤のドラマ」の極限を描くペトレンコとバイエルン国立管のマーラー「第7」


ペトレンコとバイエルン国立管のマーラーを聴くのは2017年9月の歌劇場日本ツアーで唯一のコンサート、東京文化会館の第5番に続き、2018年5月の本拠地ナツィオナル・テアーターの第7番が2度目だった。馬蹄形劇場で聴くマーラーの音響の驚きは、次第に納得へと変わった。すべての音を自然体で鳴らし構造を克明に再現しつつ、葛藤のドラマとしての熱さと感情の振幅を極限まで描き尽くす。紛れもなく歌劇場の指揮者とオーケストラの優れた仕事に仕上げていたからだ。


(池田卓夫 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎)


ペトレンコは2019年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席指揮者を務める。コンサートマスターの樫本大進、協奏曲で共演したピアニストのラン・ランらの話を聞くと、

「とにかく綿密に打ち合わせ、リハーサルを繰り返し、本番ではさらに上を行く」執念が並大抵ではなく、「1回1回が忘れがたい音楽体験になる」という。ミュンヘンでも同一曲で2日目の公演にもかかわらず、開演直前までペトレンコと何人かの楽員が舞台上に残っていて、解釈の細部になおも検討を加え、前日以上の演奏を目指そうとの強い意思を感じた。


中欧の穏やかな気候風土の中で自然に息づくようなマーラーの「第7」。かつてバイエルン放響に君臨したチェコ出身のラファエル・クーベリックがDG(ドイッチェ・グラモフォン)にセッション録音したマーラー交響曲全集の中でも、とりわけ私のお気に入りだった「第7」の記憶を呼び覚ます温かな感触は現代において、ますますの価値を主張できる。

(ナクソス・ジャパン)


ストラヴィンスキー「バレエ音楽《春の祭典》」/エトヴェシュ「ヴァイオリン協奏曲第3番《アルハンブラ》」

イザベル・ファウスト(ヴァイオリン=エトヴェシュ)、パブロ・エラス=カサド指揮パリ管弦楽団

今年はストラヴィンスキーの没後50年。音楽史上まれに見るスキャンダルを引き起こしたパリでの《春の祭典》世界初演からは108年が経っている。1世紀あまりの間に聴衆の耳は慣れ、変拍子を自在に操る指揮者のバトンテクニック、細かな音まで弾ききるオーケストラの能力とも極限まで向上した。それでもパリ初演の衝撃は語り継がれ、いま〝ハルサイ〟を演奏する者の多くが「より切り込んで、刺激的に」と発想するなか、スペインの万能指揮者エラス=カサドはロシアの作曲家ストラヴィンスキーの音楽的ルーツに目を向け、パリのオーケストラから柔らかくエレガント、民族的情感に富む全く新しい響きを引き出した。これほどしなやかで繊細、余裕の笑みを絶やさない演奏に出会ったのは初めてだ。


カップリングはハンガリーの作曲家で指揮者、ペーテル・エトヴェシュ(1944ー)の近作協奏曲。ALHAMBRAの音列と演奏者2人のイニシャルを織り込む手法で、題名で期待されるスペイン情緒は全くない。新旧の〝現代音楽〟を対比させながら聴き手に「新しい音たちとどう向き合うか?」の命題を投げかける、静かな挑発が隠された1枚だ。

(ハルモニア・ムンディ=キングインターナショナル)


※本当は以上3枚で「おしまい」なのだが、今月は日本人演奏家の新譜にも優れたものが多数あり、「特別の3点」として追記する。


シューベルト「ピアノ・ソナタ第20、21番」

多紗於里(ピアノ)

おおの・さおり、と読むピアニストは東京藝術大学名誉教授の名ピアニスト、多美智子を母とし、2歳からドイツで育った。ナミ・レコードからはすでにラヴェル、シューマンで2枚のアルバムをリリースしている。私は2019年2月、ヴァイオリンの瀬崎明日香とのデュオを聴き、以下のような感想を記した↓


「脱力の行き届いた奏法でベーゼンドルファーをごく自然に鳴らし(多くのピアニストが苦吟する第一関門を易々と突破し)、蓋を全開にしても決して弦をマスクしない打鍵のコントロールで、シューマンの枠組みを整えた」


2020年2月(第21番D.960)、8月(第20番D.959)の2度に分けて神奈川県の相模湖交流センターでセッションを組み、1曲ずつ2枚のディスクに分けて収めたシューベルトでも、多はホール備え付けのベーゼンドルファーを弾いている。じっくりと内実を見つめ、決して綺麗事では終わらせない意思の強さを感じるシューベルト。曖昧さのかけらもない。

(ナミ・レコード)


F・クープラン「クラヴサン曲全集1」

中野振一郎(チェンバロ)

デビュー当時「チェンバロの貴公子」と呼ばれ、ラグタイムやオペレッタの名曲をピリオド楽器で弾く才能が注目を集めてから、はや28年。50代後半になった中野は長年のライフワークである18世紀フランスのクラヴサン(チェンバロのフランス語名)音楽、中でも「いつかは実現したい」と切望してきたF・クープランの全曲録音ー日本人初ーに着手した。


2020年7月、岐阜サラマンカホールで収録した第1集は2枚組。アトリエ・フォン・ナーゲルが1988年に復刻したフレンチ式2段チェンバロ「ブランシェ」の1730年モデルを現代より全音低いピッチ(392Hz)で弾いている。強靭なリズム感に支えられた推進力と歯切れ良さには一段の磨きがかかる一方、じっくりと腰をすえ、エレガントに歌わせる場面では確かな円熟も感じさせ、「満を持して」のプロジェクトの幸先よい滑り出しを印象づける。

(299MUSIC)


「1ーワンー岡本拓也」

岡本拓也(ギター)

2021年4月21日、岡本は東京文化会館小ホールで、このCDの発売記念リサイタルを開いた。当日のレビューを先ず、貼り付ける↓


クラシックのギターにさほど興味のない人も、最後に収められたパット・メセニーの2曲に接すれば、岡本の超越した音楽性に驚くはずだ。とにかく、聴いてほしい。2020年10月22&23日、横浜市神奈川区民文化センターかなっくホールでセッション録音。

(マイスター・ミュージック)



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