© 2018 音楽ジャーナリスト@いけたく本舗

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​ いけたく本舗ができるまで 

1958 -- 東京都杉並区で生まれる

1963 -- 私立ワカバ幼稚園(東京都中野区)

1965 -- 杉並区立杉並第九小学校

1971 -- 杉並区立東原中学校

1973 -- 世田谷区立駒沢中学校

1974 -- 東京都立戸山高校

1977 -- 早稲田大学政治経済学部政治学科

1981 -- (株)日本経済新聞社

東京本社産業第3部 (現・企業報道部)記者 > 広島支局記者 > 東京本社証券部記者 > 同国際第1部(現・国際部)記者 > 欧州編集総局フランクフルト支局長 > 東京本社証券第1部(現・証券部)記者 > 同文化部記者 > 編集委員 > 同デジタル編集本部NIKKEI STYLE編集部記者

2018 -- 同社退職

 >フリーランスの音楽ジャーナリスト                                    

 いけたく本舗 開業

 池田卓夫の中途半端な履歴書 

私が長く向き合ってきた音楽、一般には「クラシック」と呼ばれる音楽との出会いは1968年(10歳)。 渡邉暁雄が指揮したフィンランドの作曲家シベリウスの「交響詩《フィンランディア》」をテレビで偶然に視て、楽曲の力強さ、アケ先生(渡邉の通称)の高貴な姿に深い感銘を受けた時だった。渡邉の母親がフィンランド人、兄が自分の両親の元上司に当たる国際ジャーナリストの渡邉忠恕だと知るのは、遥か後の話。日本人指揮者として定番の欧州ではなく米国、ニューヨークのジュリアード音楽院へ最初に留学した俊英。ドイツ音楽一辺倒だった当時の楽壇に対抗、自ら日本フィルハーモニー交響楽団を創立し、ルーツの北欧音楽のみならずフランス、米国の近現代音楽を積極的に紹介、日本人作曲家にも新作を委嘱した。その活動方針が、私自身の行き方をも定めた。

 

最初に定期会員となったオーケストラも、渡邉が音楽監督を務めていた当時の東京都交響楽団(都響)だった。渡邉は間もなく去り、後事を託したハンガリー系イスラエル人指揮者モーシェ・アツモンとは1977年の初来日から2016年、名誉指揮者の称号を持つ名古屋フィルハーモニー交響楽団との引退演奏会まで39年も付き合った。音楽専攻ではない一般大学の学生を相手にも音楽の基本を丁寧に語り、いつも優しい眼差しで接してくれたアツモンは渡邉に次ぐ、第二の音楽の師だった。高校2年生となった75年、エフエム東京の社外モニターに選ばれ、生意気盛りが音楽番組をメッタ斬りに批評するレポートを乱発したころ、担当ディレクターとして、いつも気の毒な釈明に呼び出されていたのが第三の師、東条碩夫だ。

 

東条はその年、発足後数年の民放FM局としては破格の新作委嘱を武満徹に行う大勝負に打って出た。小澤征爾40歳の誕生日だった9月1日、今は取り壊された東京厚生年金会館大ホールで世界初演された「カトレーン」はアンサンブル・タッシ(ピアノのピーター・ゼルキン、ヴァイオリンのアイダ・カヴァフィアン、チェロのフレッド・シェリー、クラリネットのリチャード・ストルツマン)の素晴らしいソロと相まって大成功を収め、その年の芸術祭賞を受けた。これが新設局の評価を高め、東条も「クビ」を免れた。自分のモニター報告にはもちろん、「武満は難解な作品ばかりかと思っていたが、こんな美しい曲を書けるなら、何度でも聴きたい」と書いた。後年、音楽ジャーナリストとして武満の追悼記事を執筆したさらに数年後、遺品の中から高校2年の「マセガキ」のモニター報告のコピーが出てきた。「何度でも聴きたい」の部分には、武満が書き加えたとおぼしき下線。楽譜出版社の女性社長も、小学館「武満徹全集」の大原哲夫編集長(偶然にも生前の父の若い飲み友達だったと判明)も驚き笑い、「当時から、こんなに生意気だったのか」とコメントした。武満との後年の交流についてはまた、別の機会に紹介する。

 

大学時代は早稲田の「音楽同攻会」という変な名前の音楽鑑賞サークルに所属して、フランス近代音楽の研究に明け暮れた。貧乏学生の身には演奏会通いの費用すべて、アルバイトでまかなうしか手段がなかった。ホテルでの深夜の照明器具清掃とか阿佐谷パールセンターの七夕祭りの群衆整理、福引抽選の調子いいお兄さんとか、かなり怪しげなものにも手を染めたが、メインはやはり音楽。神原音楽事務所、ジャパン・アーツでの雑用やアーティストアテンド、国際レコード(トリオ=現ケンウッドのアンテナショップを兼ねた輸入盤小売店)の店員、日本カージナルス(並行輸入盤商社)のドイツ語カタログ翻訳者など、かなり広範囲に挑みながら、一介のファンでは得られない「音楽ビジネスのそろばん勘定」をたたきこまれたことが後年、どれほど役に立ったことか!

学業ではコミュニケーション研究のゼミナールに所属、卒論は「《日本フィル事件》の報道分析」(1972年に起きた旧日本フィルのスポンサー撤退、新日本フィルとの分裂、日本フィル再生の歩みなどの新聞記事を分析しながら、音楽報道のあり方を検証)だった。執筆過程で大手新聞社で当時、音楽を担当していた記者の方々にコンタクトしたが、多忙を理由に断ったり、学生の卒論だからと軽くあしらったりせず、大真面目に論じ、指針を示してくれたのが、「讀賣新聞」の佐々木喜久編集委員(当時)だった。今も続く、第四の師との交流の始まりだった。

 

すでに音楽雑誌への執筆は細々と始めてはいたものの、先行き不安も感じ、趣味と仕事の二本立てを目指した。父も祖父も記者だったので「オマエもなって欲しい」プレッシャーに負け、経済記者をしながら音楽雑誌に寄稿する日々が始まった。入社4年目の1984年、広島支局への転勤が決まり、初めての一人暮らしを始めると、広島交響楽団再建の切り札として渡邉暁雄が現れ、ついに個人的面識を得た。「音楽の友」誌に手紙を送り、「広島の演奏会から」のコラムを新設していただいたことで、音楽執筆の基盤ができた。

 

旧西独フランクフルト支局長のポストが転がりこんだものの、特派員の最低条件(現地の言葉に堪能か、特定分野のスペシャリスト)のすべてを満たせない中で精神に混乱をきたしたとき、音楽こそ自分とドイツとの接点だと気づき、赴任後封印していた演奏会に出かけた。当日券を買って入ったラインラント・プファルツ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮していたのは何と、アツモンだった。楽屋では、「音楽の本場に来たね。精一杯、吸収しなさい」と励ましてくれた。そろそろ「仕組まれた人生」と思い始めた。

 

前後して第五の師、岸浩が現れる。国営の外国向け放送局、ドイッチェ・ヴェレの高名な音楽記者だった。高校生時代、FM放送をカセットテープに録音する「エアチェック」という趣味に興じていたころ、NHKが毎年夏に特集していた「西ドイツの放送オーケストラ」の解説者として一世を風靡、私にも憧れの人だった。その人が自分と同じボン(当時の首都)日本人記者会のメンバーで、主要な歌劇場や交響楽団の広報担当に私をつなぎ、取材チケットを申し込み、ドイツ語圏での音楽取材の手法を「授業料免除」で4年間、みっちり教えてくれた。教えるだけではない、音楽雑誌やオーケストラ定期会員誌の「ドイツ便り」の執筆を分担するよう取り計らい、実践の機会も与えて下さった。

 

帰国の翌年。勤務先でも音楽担当に。以来、「第六」以降の大量の師に恵まれてきた。

 

すべての師と、拙い文章を長年読み続けてくださった読者の皆さまに、心から感謝!

 

(敬称略)

※トップページ他に使ったコンテナの写真は現在の地元近く、品川埠頭で撮影した。コンテナには不思議な縁がある。私の父、池田良作(1998年没)は1967年に「コンテナエージ」を創刊した。それまで陸運と海運、空運に分かれていた物流をコンテナという新しい輸送媒体(メディア)で一体に報道する画期的な専門誌だった。