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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

パブロ・エラス=カサド&ミュンヘンPO、尾高忠明&N響、山根弥生子

クラシックディスク・今月の3点(2022年7月)


シューマン「交響曲全集(第1ー4番)」

パブロ・エラス=カサド指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

2019年3−4月、ドイツ・バイエルン州ミュンヘン市の「フィルハーモニー・ガスタイク」で収録した2枚組ディスク。1977年グラナダ(スペイン・アンダルシア州)生まれのエラス=カサドはNHK交響楽団への度重なる客演を通じてモダン(現代)楽器のオーケストラ、ドイツ=オーストリア系やロシア=東欧系のスタンダードなレパートリーにも優れた解釈、卓越した指揮能力を示してきた。シューマンではピリオド(作曲当時の)楽器のフライブルク・バロック・オーケストラを指揮、アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)、ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)、イザベル・ファウスト(ヴァイオリン)との協奏曲集を録音している。一方、ミュンヘン・フィルによるシューマンの交響曲では、1979ー1996年に音楽監督を務めたセルジュ・チェリビダッケの指揮する精妙極まりない「第4番」の名演を1990年ころ、フランクフルトのコンサートホール「アルテ・オーパー」で聴いた記憶がある。


エラス=カサド、ミュンヘン・フィルそれぞれに豊かなシューマンの演奏経験が重なる時、いったい何が生まれるのだろうか? 特別なことは、何も起こらない。長く「問題がある」「稚拙」とされ、カルロ・マリア・ジュリーニのようにマーラーが手を入れたスコアを使ったり、ジョージ・セルはじめ自身で校訂を施したりする指揮者も多かったなか、エラス=カサドはシューマンのオリジナルを引き締まった響き、一貫して高いテンション、颯爽としたテンポで振り進める。生搾り&無添加の果汁のように、「ありのまま」の再現に徹する。


当初「交響曲はベートーヴェンの偉業で止めを刺す」と確信していたシューマンはシューベルトの兄フェルディナンドの家を訪ね、埋もれていた「交響曲第7番《ザ・グレイト》」の遺稿を発見、メンデルスゾーンにライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団での世界初演を託す過程で考えを改めた。4作は「完璧なベートーヴェン」でも「天国的な長さのシューベルト」でもない、全く新しい交響曲の概念を究めたシューマンの試行錯誤の軌跡といえる。エラス=カサドはシューマンの激しい実験精神の成功と失敗、それゆえの独自性を高い解像度で浮き彫りにする。オーケストラがフライブルク・バロックだとしたら、過度に先鋭となるリスクを伴うところ、ベートーヴェンからロマン派にかけての交響曲に適した温かな音色、ふくよかな響きを備えたミュンヘン・フィルが最良のバランスで指揮にこたえている。

(ハルモニア・ムンディ=キングインターナショナル)


J・S・バッハ「平均律クラヴィア曲集第1巻&第2巻」

山根弥生子(ピアノ)

東京の府中の森芸術劇場ウィーンホールで2016年から2021年まで、ほぼ年1回のセッションを積み重ね、ディスク4枚分の全曲録音を完成した。山根は1933年(昭和8年)東京生まれのヴェテラン。自ら執筆したライナーノートで「やわらかな日射を背に寛ぐ縁側に響くバッハの音楽。父が弾いていた平均律クラヴィア曲集の冒頭の曲がなぜか鮮明に心に残っている。その頃はまだピアノは習っていない」と、楽曲との出会いを打ち明ける。デビュー後は「主にチェンバロで演奏するという考えが強くあった」うえ、レパートリーの拡充や日本の作品の紹介に忙しく「バッハとは長い間疎遠になっていた」という。ある日、父の遺したエドウィン・フィッシャーのLP盤、ピアノで弾く「平均律」に「言葉で表せないほど感動」し、「今やらなければもうやる時はないというところまで人生は進んでしまい、おこがましいが勇気を持ってとり組んでみることにした」。父とは厳しい筆致で多くの演奏家を震え上がらせた山根銀二(1906ー1982)、武満徹の処女作を「音楽以前」と酷評した人だ。


山根弥生子の巻頭言は「このすばらしい作品は演奏という行為の真髄を教えてくれる曲でもあると思っている」で結ばれる。続く那須田務氏の解説は「なんと瑞々しく心躍る《平均律クラヴィア曲集》だろう」と、感動の面持ちで始まる。山根の人生、演奏家として積み重ねた時間のすべてが「ダシ」となり、音の1つ1つに深い味わいを与えつつ、決して押し付けがましくは響かない。どこまでも格調高く、品性確かな音の連なりを通じ、バッハの作曲意図や構造の妙が自然と浮かび上がってくる。現代のピアノを弾きながら、アーティキュレーションやフレージング、音価ではチェンバロの音の立ち上がりと減衰を常に意識し、過度のダイナミズムや響きの膨脹を回避している点でも、様式感は確かだ。コロナ禍の長期化や急激な物価高、ロシアのウクライナ侵攻など多くのストレスを抱える日々の中、どれか1枚でも聴くと心が休まり、ただ美しいものに触れる喜びの蘇りを感じる素晴らしい演奏だ。

(ALMコジマ録音)


「波の盆 武満徹 映像音楽集」

武満徹《夢千代日記》

武満徹&芥川也寸志「オーケストラのための組曲《太平洋ひとりぼっち》」

武満徹「弦楽オーケストラのための《3つの映画音楽》」:「《ホゼー・トーレス》訓練と休息の音楽」「《黒い雨》葬送の音楽」「《他人の顔》ワルツ」

武満徹「オーケストラのための《波の盆》」

南里沙(ハーモニカ)、鈴木大介(ウクレレ)、大坪純平(ギター)、山崎燿(シンセサイザー)

尾高忠明指揮NHK交響楽団

2022年4月18ー19日、東京芸術劇場コンサートホールで収録。ライヴ録音が多いN響にとって、セッションでのオリジナル盤制作は20数年ぶりという。レコーディング・ディレクターの江﨑友淑、エンジニアの村松健らオクタヴィア・レコードのチームが録音を担当した。


解説ブックレットに引用された「武満徹エッセイ選ー言葉の海へー」からの文章ーー「観る者の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容を秘めた豊かな映像に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう」「私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている」が示す通り、映画やテレビ番組に武満が与えたのは「映像に寄り添う優しい音楽」だった。逆にいえば演奏会の場合、こうした〝慎み深い〟音楽を、純粋なオーケストラ曲として最初から構想された作品と同じように再現しても響きが足りず、感動まで薄いものになりがちな危険がある。


尾高は札幌交響楽団音楽監督の時代から「オール武満」の定期演奏会を指揮するなど、深く作曲家に傾倒してきた。東京フィルハーモニー交響楽団との昼下がりの名曲コンサートにも《波の盆》を忍び込ませ、「本当にいい曲でしょう?」と、客席に語りかけたりする。余計な加工を施さずに楽曲の良いところだけ、さりげなく引き出していく尾高の指揮には、映像音楽に対する武満の美意識に通じるところがある。協奏曲と違って派手な出番のないソロのパートにも日本を代表する名手たちが起用され、尾高と同じく、慎み深い貢献に徹する。早逝した尾高の父、尚忠は戦中戦後の苦しい時期のN響を支えた名指揮者だが、作曲の実績もあって「尾高賞」に名を残す。尾高忠明もN響で「正指揮者」の肩書きを持ち、コロナ禍以降、急速に結びつきを深めつつある。2021年には曽祖父の渋沢栄一を主人公にしたNHKの大河ドラマ「青天を衝け」のテーマ曲をN響と録音するなど、映像音楽の指揮にも定評がある。N響ともども、最良の解釈&再現者を得ての名盤に仕上がった。

(キングレコード)





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