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執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

前橋汀子・渡邉規久雄・Fグルダ

クラシックディスク・今月の3点(2019年8月)


J・S・バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(全6曲)

前橋汀子(ヴァイオリン)


ほぼ30年ぶりの再録音。私が執筆したライナーノートをお読みいただければ、全貌を理解していただけると思い、以下に再掲する;


前橋汀子を超えた前橋汀子の「バッハ再び」~前に進み続ける弦の求道者

孤高、情熱、一徹……。平成も過ぎて令和の時代が訪れた今、昭和の日本で当たり前だった求道を表す言葉の数々は死語に等しくなり、ひたすら一途な努力は「クールじゃない」と思われがちだ。だが1750年、約270年前に生涯を終えたヨハン・セバスティアン・バッハ(大バッハ)の作品を生き生きと再現、現代の聴衆に新たな感動を与える作業の難易度は、無数の解釈が試みられた後になればなるほど高いはずだ。名曲に潜む「真」「善」「美」を探り当てる再現芸術家(演奏者)の歩みは今も求道者そのものである。


「まだ私、弾き続けているのよ」。前橋汀子との会話で、最近よく聞く。「生涯現役」などと、ありきたりの言葉では表現できない、強烈な芸術家の自負だろう。中でもバッハの「無伴奏」6曲は弦の求道者、前橋にとって人生最後の一瞬まで追い続ける「究極のレパートリー」である。


前橋と弦の付き合いは最初、桐朋学園の音楽教育の礎を築いた斎藤秀雄、日本在住ロシア人の小野アンナら昭和の厳しい名教師の下で始まった。1961年に旧ソ連が日本から招いた給費留学生の第1号としてレニングラード(現サンクトペテルブルク)音楽院に留学、さらに米ニューヨークのジュリアード音楽院へと進んで数々の国際音楽コンクールに入賞、世界の楽壇へ進出した。ズービン・メータ指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック、レオポルド・ストコフスキー 指揮アメリカ交響楽団、ルドルフ・ケンペ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団……。1970年代の前橋は、もはやレジェンド(伝説)と化したマエストロたち、欧米一流のオーケストラとメンデルスゾーンやチャイコフスキー、パガニーニ、ストラヴィンスキーなどのヴィルトゥオーゾ(名人芸)協奏曲で華々しい共演を繰り広げていた。


ミハイル・ワイマン、ドロシー・ディレーら、ヴィルトゥオーゾ・ソリストの育成にたけた教師のお陰で「華麗なるコンチェルト弾き」に躍り出たが、続くスイス在住時代、ヨーゼフ・シゲティ、ナタン・ミルシテインという世紀のバッハ解釈者2人の薫陶を受けた側面を忘れてはならない。ドイツ音楽を奏でるとき、前橋の譜読みは「構造的」としか言いようがないほど深く、作品の核心に向かって一心不乱、うわべだけの美しさには目もくれずに突き進んでいく。これは明らかに、シゲティ譲りのアプローチ。それでいてエレガント、きりっと引き締まったフレージングにはミルシテインのダンディズムの面影がある。さらに少女時代から本質の一点だけを見つめ、弦の道を極めてきた前橋自身のアイデンティティが重なり、唯一無二の味わい、香りを放つ。たった1つのヴァイオリンだけで音楽の宇宙の諸相を描くバッハの無伴奏曲こそ、前橋に最もふさわしい作品といえる。


1988年の6月から11月までを費やし、長野県松本市のハーモニーホールで録音した最初の全曲盤(ソニー)は1989年度の「文化庁芸術祭作品賞」「音楽之友社レコード・アカデミー賞日本人演奏部門」に選ばれ、前橋の芸術家としての評価を一気に高めた。2007年5月、教鞭をとっていた大阪音楽大学のザ・カレッジ・オペラハウスで最初の全曲演奏会に挑んで以降、前橋は折に触れ全6曲を1回の演奏会で弾くシーズンを設けてきた。2015年に私が行ったインタビューも、7月の神奈川県立音楽堂を皮切りとする「バッハ無伴奏全国ツアー」にちなむものだった。


「録音時点から30年以上、経ちました。89年盤は若さゆえ、色々なことが未熟だと思います。ずうっと弾き続ける中で、ヴァイオリン曲にとどまらず鍵盤曲や管弦楽曲、宗教音楽など様々なジャンルの作品に触れ、時にはそれを自分の楽器で奏でながら、私なりにバッハを究めてきました。ニコラウス・アーノンクールが率いていたピリオド楽器のアンサンブル、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスのコンサートマスターのエーリヒ・ヘーバルトにはバロック・ヴァイオリンの弾き方、演奏解釈について、たくさん教えを受けました。2014年からは長年『弾きたい』と思ってきた弦楽四重奏にチェロの原田禎夫、ヴィオラの川本嘉子、ヴァイオリンの久保田巧の3人の協力で挑んでいます。カルテットに取り組み、勉強し、演奏することで様々な楽曲に対する楽譜の見方、音のとらえ方、弾き方が~小品を弾くときでさえ~変わってきました。そうした経験、体験のすべてが『弾き続ける』原動力になり、『是非もう一度、バッハの無伴奏全曲録音に取り組みたい』との思いにつながったのです。時間を費やしてきた意味合いを改めてかみしめ、今の自分に表現できるものを提示できればと思います」


旧盤では「ヘンレ原典版とブッシュ編のジムロック版」(初出時ライナーノート、小石忠男氏の解説による)を使用、新盤はベーレンライターの新バッハ全集版に基づくが、前橋の豊富な演奏体験を反映した独自の再現という解釈の基本に変わりはない。筆者はベーレンライター版を取り寄せて新旧の録音を1曲ずつ、詳細に比較してみた。旧盤では何より、すでに透徹した1つの世界が確立されていて気迫というか、もの凄い熱量に圧倒される。技は隅々まで冴えわたり、艶やかな響きにも満ち、快刀乱麻としか言いようのない運びである。半面、余りの入念さが18世紀音楽特有の軽やかさや、フレーズの終わりの飛翔感をいささか薄めているきらいもある。


新盤では肩の力が抜け、1つ1つの音符の意味を掘り下げつつ、それぞれの関係性を十分に吟味しながら、音楽が軽やかに羽ばたいていく。時として不均等な音の並びや装飾、特異な拍節感も際立たせ、舞曲は舞曲らしく、鮮やかに舞い上がらせる。「声色(こわいろ)」の多彩さが広がり、必要であれば混沌の配合、流麗さの拒絶も辞さず、ストーリーを語り尽くす。旧盤の「歌い上げる」に対し、新盤は「語りかける」要素が増した。音符と音符の間の「時間」の長短を注意深く測り、重音も縦の線をきっちり合わせるのではなく、横の流れの上のアクセントとしてとらえ、「f」や「p」の記載によって付加されたニュアンスをより的確に再現する。何より、バッハ自身が6曲を書き連ねる過程で獲得したワーク・イン・プログレスの軌跡が旧盤に比して鮮明となり、「ソナタ第3番」の並外れた傑作ぶりも、はっきりと刻印された。


もう1つ。「慈しみ」の眼差しが、より深まったのも新盤の魅力といえる。「パルティータ第2番」の第5楽章「シャコンヌ」は近年、バッハの最初の妻だったマリア・バルバラを「哀悼する楽曲(ラメント)」であり、死を題材にした旧作のコラール(賛美歌)を下敷きにしているとの学説が有力だ。「バッハの宗教音楽にも視野を広げた」と語る前橋の新しい「シャコンヌ」に、私はラメントの後ろ髪ひかれるような情感を感じた。


「弾けば弾くほど体になじんできて、6曲を短く感じるようになりました。生きるということは単に楽器を弾くのではなく、楽曲のストーリーを音で語ることであり、それを最大限に発揮できるヴァイオリンという素晴らしい楽器を与えられたことに感謝します」。前橋のすべてが、このバッハ無伴奏の新盤にはこめられている。

(ソニー・ミュージック)


シベリウス・リサイタルVol.5

渡邉規久雄(ピアノ)


今年は日本とフィンランドの外交関係成立100周年とフィンランド人声楽家を母に持つ日本フィルハーモニー交響楽団創立指揮者、渡邉暁雄の生誕100周年が重なり、日本フィルは渡邉の悲願だったフィンランドでの公演を現在の首席指揮者であるフィンランド人ピエタリ・インキネンとともに実現した。1968年にテレビで偶然、渡邉の指揮するシベリウスの交響詩「フィンランディア」を視たのがクラシック音楽との出会いだった私もツアーの同行取材から関連記事の執筆、写真展への協力、記念番組の制作に至るまで、久しぶりに渡邉ファミリーとじっくり向き合った。息子さん3人のうち2人はピアニスト。長男の康雄には雑誌のインタビュー、次男の規久雄にはラジオ番組のトークゲストをお願いした。万事に控え目、忍耐強いフィンランド人気質の体現者だった偉大な父親に似て、息子さんたちの抱える「お宝情報」も根気よく引き出す必要があったが、いざ語り始めると、信じられないほど豊かな音楽一家の物語、世界的な人脈の広がりに驚かされる瞬間の連続だった。


規久雄は2003年から数年に1度のペースでシベリウスのピアノ作品によるリサイタルを開き重ね、その都度オクタヴィアからライヴ盤を発表、2019年2月9日、東京文化会館小ホールでの公演を収めた当盤で「Vol.5」(第5巻)に至った。ミュージックバードの「渡邉暁雄生誕100周年」記念番組では、冒頭の「4つの抒情的小品 作品74」」を紹介した。規久雄は「ドビュッシーの同時代人であることを強く感じさせる作品」と指摘。「シベリウスのピアノ曲が評価されるようになったのは比較的最近ですが、我が家には祖母シーリがフィンランドから持参した古い楽譜があり、今回収録した作品のいくつかにも、幼いころから親しんでいました」と振り返る。シベリウスに対する先天的アフィニティ(親和力)は、米インディアナ大学でアビー・サイモン、ジェルジ・シェベックら名ピアニストに授かった合理的奏法での磨きもかけられ、愛着が強い説得力を伴って伝わる。

(オクタヴィア・レコード)


モーツァルト「ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466&第26番ニ長調K.537《戴冠式》」

フリードリヒ・グルダ(ピアノ&指揮)ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団


イェルク・デームス、パウル・バドゥラ=スコダとともに「ウィーン三羽烏」と呼ばれたピアニスト、フリードリヒ・グルダは1930年生まれ。2000年のモーツァルトの命日と同じ日、1月27日に亡くなったが、生きていれば来年(2020年)、90歳を祝っていた。生前のグルダは、本当に「面倒臭い人」だった。


「音楽の都」と呼ばれるウィーンの腐った伝統を徹底的に批判したとしても、それは強烈な愛情と自負の裏返し。グルダ自作の音楽劇「楽園の島(パラダイス・アイランド)」をサントリーホールで上演した後のレセプションで、アフリカ系アメリカ人のヴォーカリストと私がウィーンの悪口を話していたら、グルダが突進してきて「出て行け!」と言われた。退場する私を当時のマネジャーが追いかけてきて、「申し訳ない。奴は事の真偽や是非とは関係なく、1日に誰か1人、血祭りにあげないと気が済まないんだ。今後、私が扱うアーティストに関しては貴兄に対し、最大限の便宜を図る」といい、平謝りされた。以後、北原幸男やクリスティアン・アルミンクら、この人が扱ったアーティストと良好な関係を維持できたのは、間接的に「グルダのおかげ」だ。でも本人が「グルダが急死した」との誤報を意図的にオーストリア放送協会(ORF)に流し、大騒ぎを引き起こした後は「もはや付き合いきれず、解約した」と後に打ち明けられた。日本人との間に生まれた息子リコも異母兄のパウルと郊外の父親の家に呼び出され、列車の遅延で定刻を逸したとき、ドアの「時間にルーズな奴らは帰れ!」の張り紙を見て「ウィーンにすごすご引き返した」思い出を語ってくれた。


それでも、私はグルダのピアノが大好きだ。とりわけ、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトらウィーンに深く関わった作曲家の名曲の演奏解釈に関しては、マスター(規範)としか言いようがない説得力を感じる。最初の音へのアクセントの与え方、フレーズを展開していく抑揚や呼吸、アーティキュレートして次のフレーズへと移行する間(ま)の絶妙な取り方、シリアスだが決して鈍重にはならない自在なタッチの妙などなど、これほどまでに自然なウィーン派のピアノ芸術(Klavierkunst)の体現者はいないとすら思われる。


今回CD化された音源は1986年7月12日、「ミュンヘン・ピアノの夏」音楽祭の実況録音でミュンヘン・フィルの定期演奏会場、ガスタイクでの実況録音。以前はレーザーディスク、DVDの映像ソフトで出ていたが、このたびミュンヘン・フィルの自主レーベルが新たなマスタリングを施し、CDとして初めて発売した。いわゆる「弾き振り」には違いないのだが、グルダは帽子をかぶりシャツ姿でくねくね、ほぼ意味不明の動作でオーケストラに気分を伝え、コンサートマスターが笑いを嚙み殺しながらリードする独特のシチュエーション。映像では気になって仕方なかった部分が音だけのソフトでは皆無となり、生気に溢れ、陰翳に富む素晴らしいモーツァルトの美と愉悦の世界のみが前面に出てくる。「あなたはミュンヘン『ピアノの夏』の功労者ですね?」とレセプション冒頭、まだ機嫌の良かった時に声をかけると、「違う! 私は犯罪者(Verbrecher)だ」と返してきた照れ屋さん。唯一無二の芸術家だった。

(ワーナーミュージック)





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