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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

音楽取材の原点、広島交響楽団への思い


アルゲリッチ「秘書」の佐藤正治(右端)、トリフォニーホールの上野喜浩プロデューサー(左端)両氏も同席

広島交響楽団が音楽総監督の指揮者の下野竜也ともども、長く協力関係にあるすみだトリフォニーホールで2019年1月9日、記者会見を行った。2019年の日本・ポーランド国交樹立100周年記念のポーランド公演から2020年の東京大空襲、広島への原爆投下75周年にかけて広響平和音楽大使のマルタ・アルゲリッチとともに開く特別演奏会、同年4月の第400回記念定期演奏会、ベートーヴェン生誕250年のシリーズ企画に至るまで、内容は盛り沢山。初めて「マイ・オーケストラ」を得て「皆で生きた音楽をつくっていくプロセス」に手応えを感じているという下野と広響の充実をはっきりと示す、内容の濃い会見だった。


広響は「下野の就任(2017年4月)後、ブルックナーの交響曲への取り組みを本格化」(井形健児事務局長)、2019年5月24日の第390回定期では第5番に挑む。シーズンごと、漢字1文字で打ち出しているテーマは昨年の「愛」に続き、今シーズンは「縁」。下野のウィーン留学時以来の人脈などを生かし、恩師レオポルド・ハーガーや同門で広響首席客演指揮者に就いたクリスティアン・アルミンク、終身名誉指揮者の秋山和慶、読売日響時代の「上司」に当たるシルヴァン・カンブルラン、広響とは2度目の共演になる「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」の作曲者クスシトフ・ペンデレツキら、多彩な指揮者たちが登場する。


「ベートーヴェン生誕250周年交響曲シリーズ」は2019年シーズンに4曲、2020年シーズンに5曲を1回ずつ、新ブライトコプフ版のスコアで演奏。広島市出身の作曲家、細川俊夫の協奏曲を毎回1作組み合わせる。広響が細川作品を初めて演奏したのは1986年6月27日の第86回定期演奏会。日本フィルハーモニー交響楽団を創立すると同時に新作委嘱に力を入れ、日本の創作オーケストラ作品の偉大な文献を遺した指揮者の渡邉暁雄が広響名誉音楽監督だった時期だ。渡邉は公演前夜に広島市内のホテルで倒れ、後に音楽監督となる田中良和が急な代役を務めた。当時まだ、国内では無名に等しかった細川作品に注目し、30年以上も演奏し続けてきた広響の貢献はもっと、知られていい。



「音楽の友」1987年4月号の拙稿(一部)

実は、私が「音楽の友」誌への執筆を始めたのも、広響がとりもつ「縁」だった。1984〜87年の3年間、20代半ばの駆け出し記者として広島支局に勤務。自分がクラシック音楽に目覚めたきっかけをつくった指揮者、渡邉暁雄が「広響再建の切り札」として招かれ、音楽監督を務めた時期と完全に重なった。すでに芸術院会員だったベテラン・マエストロが「日本のクリーヴランド管弦楽団を目指す」と、最後の情熱を地方交響楽団の再生に賭けた数年間だ。しかし当時の音楽雑誌には、その躍進を伝えるスペースがなかった。「何とかなりませんか?」と1986年ころ、「音楽の友」誌に手紙を送ると当時の編集長、堀内美也子さんが直接電話をかけてきた。「あなた新聞記者なら、自分で書いてください。来月から『広島の演奏会から』のコラムを新設します!」。何ともおおらかな時代、人物のおかげで駆け出し経済記者のまま、高校生時代から続けていた音楽についての執筆を定期的に発表する場を授かった。「音楽ジャーナリスト」の原点こそ、広島交響楽団だった。東京へ異動する際、当時の音楽監督の高関健や渡邉をフィーチャーした1987年4月号の記事は、今も大切に保存している。

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