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音楽ジャーナリスト40年の節目をジョナサン・ノットと広響の初共演で祝う

執筆者の写真: 池田卓夫 Takuo Ikeda
池田卓夫 Takuo Ikeda
4 時間前
読了時間: 5分
広島文化学園HBGホールの楽屋は地下深く、照明がたくさんありまして…
広島文化学園HBGホールの楽屋は地下深く、照明がたくさんありまして…

1984年、入社4年目で初めて親元を離れ、新聞社の広島支局に転勤した。地域経済の取材が主な業務で同年、東洋工業から社名を変更した地元の大企業マツダの連載が最初の仕事だった。数多くのオーケストラがひしめく東京と違い、ここには広島交響楽団(広響)しかなかった。当時の演奏は頼りなかったが、私の広島赴任と前後して大胆なテコ入れ策が地元財界主導で動き出し、何と芸術院会員の重鎮、小学生の私をクラシック音楽の世界に引き寄せた恩人の渡邉曉雄(日本フィルハーモニー交響楽団創立指揮者)が最晩年の力を振り絞り、音楽監督を引き受けてくれた。広響の演奏水準はみるみる上がり、渡邉も地元出身ながらまだ無名に等しかった細川俊夫の作品に目をつけるなど、企画の面でも優れた仕事を続けた。次第に健康状態が悪化するなか、渡邉は最後、自身の(東京藝術大学音楽学部指揮科)生徒ではなく、実力に比して不遇をかこっていた時期の高関健を後継に指名して広島を去った。


私は広響の躍進が音楽雑誌に全く載っていないことに不満を覚え、電話番号を記して「音楽の友」編集部に手紙を書いた。しばらくして当時の堀内美也子編集長から打ち返しがあり「あなた、新聞記者なら自分で書いたらいいわ」と言われ、コラム「広島の演奏会から」の新設が決まった。1986年のことで、経済紙記者のままプロの音楽ジャーナリストとしての第一歩を踏み出した。個人の小さな歩みではあるが、今年はデビュー40周年に当たる。


1987年の1年だけ東京証券取引所の記者クラブで働いた後、今度まだ西ドイツだった時代のフランクフルト・アム・マインに支局長として赴任した。市立劇場オペラ部門の音楽総監督がガリー・ベルティーニ、ヘッセン放送協会(HR)のオーケストラ=フランクフルト放送交響楽団の首席指揮者がエリアフ・インバルの時代。コンサートホールのアルテ・オーパーも歌劇場も自宅から徒歩圏内にあり、ドイッチェ・ヴェレ放送協会の音楽記者だった岸浩さんのご厚意でプレスチケットも支給されるようになったので、かなり頻繁に出かけた。ある日「オペラの音楽スタッフに最近、英国人の素晴らしく才能のあるコレペティートルが入ったらしいよ」と聞き、プログラムの中に「ジョナサン・ノット」という名前を見つけた。


後に音楽監督を務めたバンベルク交響楽団との日本ツアーに先立ち、NHK交響楽団へ客演した際のノットを初めて取材したのも30年近く前となり、東京交響楽団音楽監督だった10年間には何度も言葉を交わした。昨シーズンで東響とスイス・ロマンド管弦楽団のシェフを辞め、カタルーニャの中心地バルセロナのリセウ劇場の音楽監督に内定しているが、世界のマネジメントのソールエージェントが日本のkajimotoなので、今シーズンは東京都交響楽団、大阪フィルハーモニー交響楽団など新しいオーケストラとの〝お見合い〟を続け、最後に広響へやってきた。


2026年10月23日、広島文化学園HBGホールの広響第465回定期演奏会。前半のパヌフニク父娘共作「祈り」弦楽合奏版とシュニトケ「チェロ協奏曲第1番」(独奏=上野通明)はアタッカ(切れ目なし)で演奏、上野はノットとともに現れパヌフニクの間も定位置に座っていた。ポーランドから英国へ亡命した詩人ペテルキェヴィチが書いた聖母像への祈祷詩に基づくパヌフニクは「祈り」そのもの、1985年に脳卒中で倒れ20日間の意識不明から蘇った後のシュニトケが最初に完成した大作である「チェロ協奏曲第1番」は彼岸をみた作曲者の心象風景だとすれば、ノットがこの2曲を人類最初の原子爆弾被爆地の広島で指揮する意図がうっすらと浮かんでくる。上野が2021年のジュネーヴ国際音楽コンクール・チェロ部門で優勝した時、スイス・ロマンド管を指揮して協奏曲を伴奏したのがノットであり、昨年の同管日本ツアーのソリストにも上野を起用するなど2人はすでに気心通じた間柄。全4楽章が切れ目なく続くシュニトケの音楽を恐ろしい集中力で限界まで掘り下げ、どこか、別の世界に吸い込まれていくような感触を覚えた。上野のアンコールは20世紀チェロの巨人、パブロ・カザルスが愛奏したカタルーニャ民謡「鳥の歌」。祈りと広島、ノットの新任地が一体になった選曲ともいえ、静かな感動がホール全体を満たした。


後半はショスタコーヴィチの「交響曲第9番」。前日に金沢で聴いた「森のうた」はこの交響曲の人を喰った軽妙さを旧ソ連共産党から批判された作曲者が起死回生を狙って一転、スターリン〝ほめ殺し〟で書いた怪作だったから、前後は逆ながら、2日間で「使用前」「使用後」を一気に聴けたことになる。ノットは広響を猛烈な勢いでドリル(耐えきれず降り番を申し出た楽員もいたという)、全曲を24分の剛速テンポで駆け抜けた。作曲と初演は1945年。同年4月5日に日ソ不可侵条約をソ連が一方的に破棄、米軍による8月6日の広島原爆投下3日後、対日参戦に踏み切った史実を思い出すと、なかなか熟慮に富んだ選曲であり、余計なことを考えさせないほどのスピードにこめたノットの思いも何となく理解できた。広響は決してわかりやすいとは言えず、常軌を逸した速度のタクトに必死に食らいつき、素晴らしい演奏を繰り広げた。40年前とは、隔世の感あり!

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