「日本兵」として旧ソ連に抑留された台湾人〜映画「零下五十度の抑留者」


1945年(昭和20年)8月8日、旧ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)は4年前に結んだ日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に宣戦布告、旧満州国(現在の中国東北部) 部)などに侵攻した。8月15日の終戦(日本の敗戦)を経て旧ソ連の捕虜となった日本兵や日本の民間人はシベリアや中央アジア、モンゴルなどに抑留され、厳しい気象条件の下で過酷な労働を強いられた。一般に「シベリア抑留」と総称される強制労働の対象者は、厚生労働省の調査によると57万5千人。うち5万5千人が帰国を果たせずに亡くなった。ここで「日本人」とされた中に日本統治時代(1895〜1945年)の台湾から「日本兵」として出征した台湾人が含まれていた事実は戦後の日本と台湾で、歴史の闇の中に埋もれてきた。

横浜市在住の呉正男さんは旧ソ連抑留を体験した台湾人の1人で今年99歳、唯一の現存者だ。呉さんは独自の調査を続け、同じような境遇にあった台湾=日本兵の存在を19人までつきとめた。東京の旧制中学に在学中に陸軍特別幹部候補生に志願した呉さんは「台湾人日本兵約20万人のうち3万人が戦死したにもかかわらず、日本にはその慰霊碑がありませんでした。私はそれを自分で作ることにして2025年、横浜市内に建立しました」と語る。戦後の台湾では蒋介石の率いる国民党政権が戒厳令を施行、抑留者を含む台湾出身の旧日本兵は「敵国(日本)のために戦った」として弾圧され、多くを語れないままに世を去った。
台湾の映画監督、許明淳(コー・ビンスン=1968年生まれ)さんは2022年、「私の父と同じく1927年生まれ」の呉さんと知り合い、「台湾と日本の特別な関係を家族や周囲の人々にもきちんと伝えていきたい」と考え、映画「零下五十度の抑留者」の制作に乗り出した。許監督の父親の写真には「国民党の軍服姿」があり、「呉さんと同い年なのに、どうして国民党なのか?」の疑問も抱いたという。「台湾人は受けてきた教育や時代の影響に左右され、台湾が果たして『国』なのかの問題も含め、長くアイデンティティーの問題に直面しています。過去の戦争は不可逆的なものですが、私たちには呉さんがご自分の言葉で伝えた歴史の記憶を後世に伝え、戦争が2度と起きないように努める義務があります」

映画は呉さんの足跡を横軸に展開するが、すでに故人となった台湾人元日本兵の抑留体験者やその息子、許監督の息子など様々な世代や考え方の人々が縦軸として配され、〝揺れる〟アイデンティティーの実態を丁寧に描く。「それぞれに家族がいて、家庭がありました。多くの記憶を集め、交差させることで、異なる考え方の人々の相互理解が進む気がします」。呉さん自身、戦後は日本国籍を失って「祖国は台湾、母国は日本」の思いのまま在留外国人登録を繰り返して日本に住んできた。当然、日本政府の補償や援護の枠外に置かれたままだ。
2026年9月5日、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムで行われた映画の公開初日の舞台挨拶。許監督とともに現れた呉さんは想像以上に矍鑠(かくしゃく)としていた。「抑留は私の人生最大の事件であり、極めて珍しい経歴だと思います」と切り出した後、「それでも旧ソ連の悪口は言いたくありません。もし日本が戦争に勝って米国兵を抑留しても、同じようなことが起きていたはずです。シベリアは零下50度で大変だったでしょうが、私は中央アジアに抑留され、零下20度になると作業中止の指令が出たので〝幸せ〟な捕虜でした。抑留期間も2年にとどまったのですから」と言葉を継いだ。究極のポジティヴシンキングともとれるし、より過酷な状況の下で無念の死を遂げた人々への思いやりともとれる。さらに「半年前に試写を拝見、『ドキュメンラリー映画は面白くない。日本で上映しても観にくる人はいないのでは?』と思ったんですよ。今日はこんなに大勢、面白くないものを観に集まってくださり、ありがとう」と言い、爆笑を誘った。本当に性根がすわり、強い人だ。
配給宣伝&写真提供:太秦



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