top of page
  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

前橋汀子のバッハ無伴奏全曲@トッパン


2019年12月21日。父の命日に東京・小石川のトッパンホールで「前橋汀子 J・S・バッハ 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ&パルティータ全曲」(6曲)演奏会を聴いた。同じ1998年の間に4ヶ月差で相次ぎ両親が亡くなったとき、汀子さんは「さびしくなるね」と、優しい言葉をかけてくださった。今年は彼女を長く支えてきたお母様が96歳の天寿を全うした。うちの両親は経済的成功に恵まれず、子どもに楽器を習わせる余裕もなかった代わり、テレビやラジオの音楽番組を熱心に探し、音楽の魅力を語って聞かせ続けた。ある日、NHK交響楽団と前橋がパガニーニの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を演奏している姿に対し、黒柳徹子(父親は元N響コンサートマスターの黒柳守綱)が「ヴァイオリンを弾いている女性の背中が、こんなに美しいと思ったのは初めてです」とテレビで語った瞬間、自分も虜になった。高校入学と前後して前橋が出演する演奏会の「追っかけ」を始めたので、ファン歴は間もなく半世紀に達する。1993年に最初にインタビュー、取材する側vsされる側の関係ができてからの時間も四半世紀を超えた。中でもバッハの「無伴奏」は重要な存在で1989年、最初に録音した全曲盤(ソニー)は駐在地のフランクフルトに取り寄せ、日本人音楽家がドイツ音楽の真髄に迫った演奏として誇らしげに聴き、自身の仕事の糧とした。


前橋が全6曲を1回の演奏会で弾いた最初は2007年5月、教べんをとっていた大阪音楽大学のカレッジ・オペラハウスの日曜マチネだった。友人を誘って東京から駆けつけ、張り詰めた緊張が最後は興奮の絶頂に至り、「シャコンヌ」(パルティータ第2番の第5楽章)で輝かしく幕を閉じるドラマを目の当たりにして「これは、もう1つのオペラだ」と思った。その後も何度か全曲演奏に接した後、2017ー2018年に前橋が自費で録音スタッフとホールを押さえ、こつこつと再録音した全曲盤の発売元が再びソニーと決まった時点で、ライナーノートの執筆を依頼された。新旧の内容の違い、ライナーノートの中身などは4ヶ月前の当HPに掲載したので、下記URLを参照していただきたい;

8月にウィーンで今年98歳の元ウィーン・フィル・コンサートマスター、ワルター・バリリを訪ねた折も「1955年に日本でレッスン番組に出演した際、非常に優秀だった美少女」の思い出が語られ、すぐに前橋のことだとわかった。前橋によると、録音も実在するらしい。


以後、60年近く一線で活躍、2019年は日本経済新聞「私の履歴書」とバッハ再録音で一気に「ヴァイオリンのレジェンド」の名声を高めた。実り多く、そして、少し悲しい年の締め括りに改めてトッパンホールでバッハの「無伴奏」全曲と向き合い、今年の弾き納めとするーー演奏者の万感の思いが伝わったのか、満席のホールには開演前から独特の高揚感が漂っていた。多くが前橋と同世代か、私のように長く憧れを抱いてきた中高年のファンである。


演奏は再録音盤の、さらに上にいく。「ソナタ第1番」第1楽章「アダージョ」からして、凄まじい気迫に圧倒される。第2楽章「フーガ アレグロ」に入ってしばらくすると、何かが「降りて」きた。没入の度合いが深まり、激してくると、グレン・グールドや小林研一郎顔負けの「唸り声」も聞こえてきた。「ソナタ第3番」に至り、絶好調の興奮が昂まる。半面、全体の構造に向ける視線やピリオド(作曲当時の)奏法も意識したアーティキュレーションやフレージングのコントロールにも抜かりはなく、年季の入った仕事ぶりだ。


ライヴのステージの演奏効果を考えれば「最後は《パルティータ第2番》の《シャコンヌ》で終わりたい」という演奏家精神は2007年から一貫しているが「残り5曲をどういう順番で弾くかは、何度も考え直してきた」。結果、「1番&1番」で始め、音楽的には全6曲中の最高傑作といえる「ソナタ第3番」で前半を締め、後半は「ソナタ第2番」を経て最も有名な「パルティータ」の「第3番」「第2番」を続けて弾くオーダーを今回は採用した。打ち上げの席で、前橋が「最近、私は家でも6曲を通して弾き、演奏会に備えることが増えたのよ」と漏らすとトッパンホールの西巻正史プロデューサーの夫人で、前橋カルテットの第2ヴァイオリン奏者も務める久保田巧がすかさず「ええっ、休憩なしにですか?」と、問いただす。「ちゃんと3曲弾いたら休憩を入れ、台所に水を飲みにいくわ」と前橋。何気ないやりとりの背後に、絶えず全曲演奏会への準備(コンディショニング)を怠らない前橋の、激しい演奏家魂の炎をみた気がした。まだまだ、より高い山頂を目指していくに違いない。


休憩を含む全3時間をこれほど「短い」と思ったのは、前橋の「バッハ無伴奏全曲演奏会」でも初めての体験だった。それだけ周到に準備し、客席と一体に「シャコンヌ」の大団円へと到達するまでのドラマトゥルギー(作劇術)を熟考したベテランならではの仕事。もう一つ感心したのは、調弦にかける時間が最小、ほんの少し弦を締め直し、ポンポンと弾くだけですぐに弾き始めること。舞台ソデにはけるのは前半3曲、後半3曲を弾き終えた時のみ。上手(右)側にはベーレンライターの新バッハ全集版の楽譜を閉じた(青い表紙の)まま、譜面台に「お守り」のように載せている。1曲ごと深く呼吸を整えて弾き始め、最後は弓で天空を切り裂くようにポーズを決めて終わる。居合い抜きとか、蹲踞の姿勢とか、何か日本古来の武道精神を感じさせる姿が、たまらなく、かっこいい。舞台の出入りは女王様のようであり、満面の笑みで客席の歓声にこたえる。自分に音楽の素晴らしさを教えてくれた女神が半世紀以上も輝き続け、今はその側で、仕事をご一緒する。「自分は何て幸せな人間なのだ」と思い知り、そうした分野への目と耳を開いてくれた両親の慧眼にも感謝した1日。


閲覧数:482回1件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page