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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ロザコヴィッチ・ロジェストヴェンスキー&読響・豊嶋泰嗣&中野振一郎

クラシックディスク・今月の3点(2019年12月)


「ただ憧れを知る者のみが」

チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」「歌劇《エフゲニー・オネーギン》第2幕からレンスキーのアリア《青春は遠く過ぎ去り》」(アウアー〜ロート編)「ただ憧れを知る者のみが」(エルマン編)「《懐かしい土地の思い出》より第3曲《メロディ》」「《感傷的なワルツ》第6曲」(ギトリス編)「《懐かしい土地の思い出》より第1曲《瞑想曲》」(グラズノフ編)「ワルツ・スケルツォ」(ベゼキルスキー編)

ダニエル・ロザコヴィッチ(ヴァイオリン)、スタニスラフ・ソロフィエフ(ピアノ)

ヴラディーミル・スピヴァコフ指揮ロシア・ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団

2001年ストックホルム生まれのヴァイオリニスト、ロザコヴィッチのドイッチェ・グラモフォン(DG)契約第2作。私は日本盤ライナーノートを作成するに当たり、オリジナル盤に載ったドイツの音楽ジャーナリスト、ヘルゲ・ビルケルバッハとロザコヴィッチの対話(会場をチャイコフスキーが「ヴァイオリン協奏曲」を作曲したスイス・ジュネーヴ湖畔のホテル・デ・トロワ・クローンに設営)をベースに、楽曲解説と演奏者の「想い」を絡ませ一つの読み物とする手法を採用した。オリジナルのアルバムタイトルは「None but the Lonely Heart(孤独な心の持ち主だけが)」。ゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修業時代」に登場する不思議な少女ミニヨンの歌う詩をレフ・メイがロシア語に訳したものに作曲した歌曲「ただ憧れを知る者のみが」から生まれた英語のポップソングの題名だ。「ヴァイオリン協奏曲とは対照的な、完全に孤独な世界。原曲は声とピアノですが、その声は心の叫びといえます。私はチャイコフスキーーにとって大変重要だった〝歌のキャラクター〟をヴァイオリンで映し出したかったのです」と語るロサコヴィッチは、とことん「肉声」の側面にこだわる。


最も象徴的なナンバーは「エフゲニー・オネーギン」のレンスキーのアリア、「青春は遠く過ぎ去り」だろう。「生まれて初めて〝恋に落ちた〟オペラが、《エフゲニー・オネーギン》です。レンスキーのアリアに心から触発され、ヴァイオリンで表現することはできないかと考えました。アウアーの編曲は本当に素晴らしいものです。私は声楽的な美感を損なわず、意味を持たせようと努め、歌詞がどういう意味を持ち、どのように響かせるべきなのかを絶えず究めなければなりません。一言一言に、たくさんの意味があるはずです。私は2人のテノールの歌唱をとり混ぜながら、このアリアへの霊感を深めました。ドイツのフリッツ・ヴンダーリヒの声楽的な美しさと、旧ソ連のイヴァン・コスロフスキーの並外れた表出力を組み合わせにより、すべてのフレーズを実際に理解していったのです。全ての角度から分析しつつ、2人の声を分かち難く結びつけ、最良のバランスを得ようと試みました。器楽独奏者の私は、アリアを人間の声のように奏でなければなりません」


多くの「天才少年」が超絶技巧の誇示に懸命なメインの大曲、「ヴァイオリン協奏曲」の演奏に対し、一部の評論家は「彫り込みが浅い」「新奇性に乏しい」とロザコヴィッチを批評したが、〝一聴〟穏やかな演奏は、作曲家の「肉声」に神経をとことん集中させるリスクを潔く選択した結果に過ぎない。「独自の旋律の数々は聴く者の心とともに、知覚をも惹きつけます。チャイコフスキーを聴くと、その音楽は何時間も頭に残るはずです。私にとっては何時間ではなく、何日の単位ですが、それこそがチャイコフスキーの特徴といえます。あまりにも多くの問題に振り回されたがゆえに、言葉では言い表せなかったものすべてを彼は天才的な旋律の数々を介し、語りかけました。私はチャイコフスキー、とりわけ協奏曲を演奏するときに、自己を完全に解放できるのを本当に素晴らしいと思いますし、それは滅多にないことです。チャイコフスキーは自身の人生で決して開けなかったものを、音楽ではつねに解放していました」。19歳の青年の真剣な眼差しを反映した、新しい解釈の誕生である。


管弦楽は1970年チャイコフスキー国際音楽コンクールのヴァイオリン部門で藤川真弓と第2位を分かち合った(第1位はギドン・クレーメル)後、指揮活動も開始したスピヴァコフが2003年、プーチン大統領の後ろ盾を得て創立したロシア・ナショナル・フィル。セッション録音の会場はモスクワの「国際音楽の家スヴェトラーノフ・コンサート・ホール」で2010年、当時9歳だったロザコヴィッチがスピヴァコフ指揮でソリスト・デビューを果たした思い出の場所だ。チャイコフスキーの協奏曲の収録を終えたとき、今年(2019年)75歳のスピヴァコフが言葉をかけた。「私は過去50年にわたり、この協奏曲を弾いてきました。今度はキミが向こう50年、同じ協奏曲と向き合うことになるのだよ!」

(DG=ユニバーサルミュージック)


ブルックナー「交響曲第5番」(シャルク版)

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団

今年もラドミル・エリシュカ、マリス・ヤンソンスら日本の音楽ファンに愛されたマエストロたちが世を去った。日本では平成から令和への改元もあり「ひとつの時代が終わった」感満載だが、世界の楽壇を見渡しても、第二次世界大戦後の音楽の急激な産業化&グローバル化を牽引した世代のマエストロがここ数年、相次ぎ亡くなった。2017年5月19日、東京芸術劇場の読響第568回定期演奏会は本来、桂冠名誉指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが指揮する予定だったが、2月21日に死去したため、88歳の名誉指揮者ロジェストヴェンスキーが「まさかの代役」に招かれた。曲目はブルックナーの「第5」交響曲、指定はこれまたまさかの「シャルク改訂版」である。残念ながら立ち会うことはできなかったが、演奏の素晴らしさはもちろん、バンダを盛大に並べてシンバル、トライアングルを立奏で派手に鳴らす趣向に至るまで、すべてが話題の演奏会だった。翌2018年6月16日にはロジェストヴェンスキーも旅立ったので、最後の来日を桁外れの派手さで締め括ったことになる。


いまライヴ録音を担当した斉藤啓介さん自身のレーベル「ALTUS」が発売したCDでその全容に初めて接し、衝撃を受けた。開始からして、テンポが異様に遅い。すでに生命の蝋燭は消える寸前、第2楽章アダージョは黄泉の国からの声明の趣き、第3楽章スケルツォで最後の激しい燃焼をみせるも、第4楽章フィナーレは死者の行進、情け容赦のない打楽器の強打が阿修羅の叫びのごとく広がる。終演後の会場は沸きに沸いているが、こうして音だけを聴くと、描かれた光景の恐ろしさに背筋が凍りつく。10数年前に青森県の恐山を訪れ、西の河原や三途の川の再現などに死後の世界を覗き見た瞬間を思い出す、臨死体験の演奏だ。長くロジェストヴェンスキーと付き合ってきた読響のメンバーにもある種の「予感」があったのか、高水準のアンサンブルすべてを注ぎ込んだ献身的な演奏ぶりには胸を打たれる。

(ALTUS=キングインターナショナル)


J・S・バッハ「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全集(第1ー6番)」

豊嶋泰嗣(ヴァイオリン)、中野振一郎(チェンバロ)

桐朋学園大学音楽学部の同学年、ともに1964年3月の早生まれで誕生日も至近という豊嶋、中野だが、プロ奏者として舞台上でデュオを始めたのは2016年と、かなり最近のことだ。J・S・バッハの「ソナタ全曲」は、2019年の「東京・春」音楽祭で初めて演奏。同年秋には京都市内で3回連続のバッハ特集を成功させた。この辺りの経緯は夏に一度、当HPのために行った豊嶋へのインタビュー記事で紹介した;


完成したCD。豊嶋本人に「サイン入りで送って!」と不躾に願い出ると何と中野のサインまで入れ、届けてくれた。2019年3月20日、東京国立博物館平成館ラウンジでの初演奏に比べれば、セッション録音の完成度も伴い、一段と強い説得力と安定感を備えている;


モダン(現代仕様の)楽器のヴァイオリンとピリオド(作曲当時の仕様の)楽器のチェンバロという組み合わせ自体、もはや珍しい現象ではないが、長年の信頼関係の上にそれぞれの美点をすり合わせ、現代のコンサートホールで奏でる最も妥当な様式感のバッハ像を打ち出した2人の力量は、やはり傑出している。

(EXTON=オクタヴィア・レコード)




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