知り合いの編集者の紹介で、荒井結というチェリストの東京初リサイタル「心に響く音」を2019年5月25日、JTアートホール・アフィニスで聴いた。
開演ギリギリの到着で虎ノ門駅から小走りで会場に向かう間、物凄い人数の警官がいた。トランプ大統領来日に際し、米国大使館至近のホールというのは厄介だ。もちろん予約時点では、そんな事態を予測できるわけがない。ホールに入って、2度びっくり。一般的に知名度の高い奏者ではないのに、ほぼ満席の上、倉田澄子、山﨑伸子、宮田大ら名ソリストから学生、アマチュアに至るまでのチェロ族がわんさと詰めかけていた。聞けば、15歳で故郷の福井市を出て米国、ドイツと渡り歩き、現在は名古屋を拠点に室内楽、チェロアンサンブルの分野で積極的に活動しているという。日本の音楽大学に行かず、強力な後ろ盾となる先生もいないので、実力に比して地味な境遇にいる現状を見かねた有志4人が実行委員会を立ち上げ、1年がかりで準備を進めてきた。
ピアノは鈴木慎崇。シルヴァン・カンブルラン指揮の読売日本交響楽団がストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」を演奏したとき、オケ中のピアノがあまりに見事だったので事務局に問い合わせ、名前を知って以来、ひそかに注目してきた名手だ。日本音楽コンクール第1位の力量を惜しげなくアンサンブルに注ぎ込み、今日も伴奏ではないデュオパートナーの役目を十全に果たしていた。
プログラムはシューマン「アダージョとアレグロ」、ブルッフ「コル・二ドライ」、カサド「無伴奏チェロ組曲」が前半、後半はR・シュトラウス「チェロ・ソナタ」の一本勝負。アンコールのドヴォルザーク「森の静けさ」に至るまで、ロマンティックな名曲を並べた。最初は緊張のあまりか音が硬く、力で押し切る分、音色の多様性も損なわれていた。時間の進行とともに自在さをぐんぐん増し、息の長い歌のライン、人間の声のように語りかけてくる音色の妙が前面に出てきた。シュトラウスの緩徐楽章で千葉を震源とする地震(会場周辺の震度は3)に見舞われたが、奏者2人の紡ぐ美しい歌は一瞬も途切れず、深い瞑想の世界に沈潜していった。
期待以上の素晴らしい成果に対し、会場は沸きに沸いた。アンコールに先立つスピーチで、荒井は実行委員会、チェロ仲間、聴衆の全員に感謝を述べた。ふと「チェリストたちのためのチェリスト(a cellist for celllists)」の文字が脳裏をかすめた。同時に、演奏家の実力を自分の耳ではなく学歴や先生の名前で判断しがちな傾向を心底、バカバカしいと思った。世界各地でオーディションを実施している札幌の国際教育音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)に3回合格した事実ひとつ挙げても、実力を疑う余地はない。
ちなみに荒井は女性として生まれたが性同一性障害であったことをカミングアウト、現在はトランスジェンダー(LGBTのT)のチェリストというアイデンティティを確立している。すべての意味で、日本の新しい時代を象徴する音楽家である。
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