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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

都響の首席客演指揮者vs音楽監督、独墺音楽・夏の陣⁈ アランと大野は好対照

更新日:2019年7月25日


2019年7月24日。東京都交響楽団の首席客演指揮者アラン・ギルバートは昼公演の東京芸術劇場で都響C定期、音楽監督の大野和士は同じタイトルを持つスペイン・カタルーニャのバルセロナ交響楽団の夜公演をオーチャードホールでそれぞれ指揮。期せずして、ドイツ&オーストリア音楽の王道レパートリーで実力や持ち味を競い合う1日となってしまった。


「日本オーストリア友好150周年記念」と銘打たれたアラン指揮都響の定期はモーツァルトの「交響曲第38番《プラハ》」とブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」(ノヴァーク1878/80年版)。東京都内での「トゥーランドット」(プッチーニ)舞台上演を終えたバルセロナ響は一転、創設者で前身となるパブロ・カザルス交響楽団の名称でもある20世紀チェロの巨人かつヒューマニスト、カザルスがフランコの軍国主義を嫌ってスペインを去る前最後に指揮したベートーヴェン、「交響曲第9番《合唱付》」に、大野の指揮で挑んだ。後者の前半にはカタルーニャの若手作曲家ファビア・サントコフスキー(カイヤ・サーリアホが審査した2015年、東京オペラシティの「武満徹作曲賞」第2位)が三味線デュオの吉田兄弟のソロを念頭に置き、カザルスが愛奏した「鳥の歌」も引用した「2つの三味線とオーケストラのための協奏曲〜カザルス讃&二重の影の歌〜」の日本初演も。


アランと都響の相性は、本当に良い。ことさらピリオド楽器を採用せず、モダン楽器で大編成のオーケストラを爽快に鳴らしながら、繰り返しやティンパニのカチッとした打点などで様式の押さえも的確なモーツァルト。楽員たちも、ゆったりとした時間の味わいを楽しんでいた。ブルックナーでは全身弾きの総力戦が繰り広げられ、集中度の高い弱音から金管の総奏にも負けない分厚い音まで一貫して音色美をたたえた弦、名人芸を競い合った木管、フォルテでも絶えず美観を失わず円やかさを保った金管…と、極上の響きのブレンドに圧倒された。アランは基本早めのインテンポながら、クライマックスにかけては力強いアッチェルランドも辞さず、内面の感情を思いっきり爆発させる。それでいて、バランスはぴたっと整っているので、音楽は違和感なしに流れていく。自然の摂理に抗わないエコロジー志向のアプローチは新鮮であり、アランの進境を強く印象づけた。


一方、大野の「ダイク」演奏解釈は今から25年近く前、常任指揮者を務めていた東京フィルハーモニー交響楽団との演奏と、基本線に変わりはなかった。いや、カメレオンみたいにスタイルをころころ変えるよりはたぶん、信頼に値する再現芸術家の姿勢のだろう。ピリオド奏法とは一線を画して、ストコフスキー (アメリカ)式配置で大編成のオーケストラをたっぷり鳴らし、声楽チームも含めたパワーで徹底的に熱気をあおる行き方だ。もちろん、以後四半世紀の豊かな演奏経験を反映し、弱音の徹底や歌い回しの温かさ、フェルマータやルフトパウゼの大胆な強調などを通じ、巨匠志向の芸風は顕著となっている。


東京フィル、オーチャードホールを巻き込みレアもの歌劇を演奏会形式で上演した「オペラ・コンチェルタンテ」シリーズでセンセーションを巻き起こしていた時期からのコラボレーター、東京オペラシンガーズも「トゥーランドット」B組キャストの姫(ジェニファー・ウィルソン)、カラフ(デヴィッド・ポメロイ)、ティムール(妻屋秀和)にメゾソプラノの加納悦子を加えたソリスト4人、特にアングロサクソン圏出身の2人も、ブイブイのパワー志向。日本とスペイン、カタルーニャの国際交流イベントの祝祭気分を盛り上げるにはある意味、これしかないのだろうが、21世紀も5分の1を経過、生誕250年を来年に控える作曲家のウルトラ実験精神に溢れた大作の再現として、「本当にこれでいいのか?」との疑念を払拭できない自分がいた。大野和士が佐渡裕に接近しても、あまり面白くない。依然、ビターな芸風でいてほしい。


実験精神という点では、サントコフスキーの「2つの三味線とオーケストラのための協奏曲」は満点かそれ以上だった。三味線に対しても打楽器的なサウンドエフェクトの道具=インストゥルメントの居場所を与え、見事な〝ゲンダイオンガク〟の音響を現出させた。個人的には「入れ込み」が過ぎて少し尺が長いのでは?と感じたのと、三味線の「撥弦」機能に注目するあまり、独特の味わいを持つ音色や旋律面への関心が極度に低いこと、吉田兄弟の妙技を発揮する場面があまりに少ないことに、いささかの欲求不満を覚えた。大野のプレトークでの作品解説、本番での指揮ぶりは献身的で、称賛に値する。吉田兄弟のアンコールは創作の原点となった井上鑑編曲の「鳥の歌」。井上の実父で昭和の偉大なチェリスト&教育者、井上頼豊のカザルスに対する畏怖の念、それを綴った名著「回想のカザルス」(新日本新書)に触れた学生時代を思い出した。プレトークで大野が鑑(あきら)の名前を何のクランチか脳内変換、明治の政治家の井上馨と同じ「かおる」と紹介したのには、微苦笑。


バルセロナ響に関しては「トゥーランドット」のピットに入ったときと同じ印象。メカニックの完成度では都響の足元にも及ばない。とりわけ、管楽器アンサンブルの不用意な乱れ、ぽかミスにはドキッとするのだが、なぜかあまり気にならない。楽員全員、同行した家族ともども、人生を謳歌している。弦の温かな音色と色彩感、管ともども弾けた瞬間に広がる華やかさとカタルーニャを旅したときの記憶とシンクロする土臭い感触の響きこそ、技術的には世界の頂点をうかがいつつある日本のオーケストラに今なお、欠けた要素なのかもしれない。東京オリンピック&パラリンピックに向けて、加速度的に安っぽく、俗悪に囃されがちな「文化交流」という言葉にこめられた真の意味を今回、オペラとコンサートで示したバルセロナ響の、侮れない凄み。すべて大野の仕掛けだとしたら、やはり真のマエストロだ。


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