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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

横坂&山田の日本フィル定期→戸室→泉&奥村→田中&中丸(指揮者デビュー)

更新日:2020年9月8日


「日本はステキな音楽にあふれている」。9月最初の週末、土日で4つの演奏会を聴いた。感染症対策の規制は多々残るが、すでにコンサートライフの日常は戻りつつある。4公演すべて、聴きどころがあった。数日前に「ウィーン・フィルが最後の望み。中止になれば年内の鑑賞予定はゼロになる」と、電話してきた人がいた。世界的演奏家(&団体)だけを聴いていれば当然だが、日本国内にも優れた才能は少なからず存在、着実に水準を切り上げている。いつも不思議に思うのは、イタリアン・レストランではシェフがイタリア人か日本人かに関係なく、レシピの独創性や純粋に美味しいか否かのポイントだけを評価するのに、こと演奏家に関しては、日本人軽視の傾向がいまだ存在すること。いかに滑稽な発想であるかを思い知るにはまず、自分の顔を鏡でよく見る。決してヨーロッパ人と同じではない。次いで、市場原理を考える。日本に来る時点で地元の「選別」を済ませていればこそ、外来の水準は一定の高さを備えているだけ。それぞれの域内市場には、箸にも棒にもかからない連中が日本と同じか、それ以上に存在する。良い音楽を聴く上で、国籍による差別は無意味だ。


1)日本フィルハーモニー交響楽団第723回定期演奏会(2020年9月5日、サントリーホール)

山田和樹(指揮)、横坂源(チェロ)、沼沢淑音(ピアノ)

ガーシュイン「《アイ・ガット・リズム》変奏曲」

ルグラン「チェロ協奏曲」(日本初演)

ソリスト・アンコール=カタルーニャ民謡(カザルス編)「鳥の歌」(チェロ四重奏伴奏)

五十嵐琴未「《櫻暁(おうぎょう)》for Japan Philharmonic Orchestra」(世界初演)

ラヴェル「バレエ音楽《マ・メール・ロワ》」

ここ何年か、日本フィルのシーズン(9月→翌年7月)開幕定期は正指揮者、山田の「指定席」となり、「日本フィル・シリーズ」旧作の再演と委嘱新作の初演を交えた日本の作曲家と世界の興味深い作品を組み合わせたプログラミングに挑んできた。今年は長老の水野修孝(1934-)作曲「交響曲第4番」(2003)の再演が目玉だったが、感染症対策で巨大編成が不可能となって来年以降に先送り、代わりに合唱曲などで頭角を現した新進、五十嵐琴未(1990ー)に山田が「演奏時間5分程度の新作」を委嘱したのは2か月前(7月)だったという。五十嵐は日本フィルの「日本」に想を得て「日本人の心を映す桜」をイメージに作曲、「今年はコロナでお花見に行けなかった方」の心を癒すように美しく、日本的な響きに彩られた佳作を描いた。山田によれば「暁は創立指揮者の渡邉曉雄先生でもあり、日本フィルにふさわしい作品」という。長期戦略にもたけたマエストロのこと、日本のオーケストラの海外公演のアンコール曲でレパートリーを増やす意図もあり、「5分」を指定したのではないかと思う。曲中にはチェロのソロが現れ、この定期だけのゲストに入ったソロ・チェロ奏者で日本音楽コンクール・チェロ部門第1位、ピアノ三重奏団「葵トリオ」としてミュンヘンARD国際音楽コンクール室内楽部門第1位を得た伊東裕が素晴らしい音色で華を添えた。ちなみにヴィオラのトップにも安達真里がゲストで座り、なかなかゴージャスな布陣。


日本を真ん中に置き、アメリカ合衆国とフランスの連関を両側に配置したプログラミングは、ガーシュインがパリにラヴェルを訪ねて弟子入りを志願したとき「2流のラヴェルになるより1流のガーシュインでいなさい」と激励されたエピソードに基づく。逆にラヴェル、さらに映画音楽で一家をなしたミシェル・ルグラン(1932ー2019)のフランス側が新大陸の音楽=ジャズから受けた影響も刷り込ませている。ガーシュインの変奏曲では沼沢が達者なソロを披露したが、管弦楽ともども「ズンチャ、ズンチャ」と刻まれがちな日本のリズム感が気になった。だが、これも「山田のしたたかな戦略だった」と気付くのはルグラン最晩年の大作「チェロ協奏曲」(2016)で横坂のソロに接した瞬間だ。パリ音楽院でナディア・ブーランジェに師事したルグランが80歳代に至り、クラシック音楽にも足跡を記そうと張り切った結果、決してわかりやすくも甘美でもなく時に晦渋な作品。横坂は真正面から向き合い、作曲家の「心の声」のようなものを温かくふくよかな音色で淡々と浮かび上がらせていく。下手に「ジャズの影響」などを強調せず、日本人の細やかな感性で別の魅力を引き出し得た。同じ週に横浜みなとみらいホールで聴いた郷古廉(ヴァイオリン)、北村朋幹(ピアノ)とのヘンツェ、ブラームスにも共通する横坂の成熟によって、幸せな音楽の時間が流れた。「鳥の歌」では伊東との二重奏の瞬間もあり、2人の音色の違いを楽しめた。


最後の「マ・メール・ロワ」も小編成の魅力を生かした繊細な再現で伊東、安達に加え、コンサートマスター扇谷泰朋をはじめとする首席奏者たちのソロの妙もたっぷり味わえた。


2)戸室玄 ピアノリサイタル「音楽と美術の夕べ」(9月5日、大倉集古館)

プーランク「3つの《ノヴェレッテ》」

ショパン「バラード第4番」

ヴェルディ(リスト編曲)「リゴレット・パラフレーズ」

ドビュッシー「喜びの島」

シューマン「アラベスク」

ストラヴィンスキー(アゴスティ編曲)「火の鳥」

アンコール=ドビュッシー「月の光」、グラナドス「ゴイェスカス」〜第7曲「わら人形」

戸室は1989年東京生まれだが、7歳で米国に移りサンフランシスコ、ボストンで育つ。フランスの名ピアニスト、フィリップ・アントルモンに才能を見出されて2007年パリへ移住。エコール・ノルマル音楽院を経てロンドンに向かい、2018年に英ロイヤル・アカデミー修士課程を最優秀で終了した。私の場合は知人の紹介で10年ほど前に知り合い、何度か聴いた後にすっかり、消息が途絶えていた。今回、ホテルオークラ創業家(大倉ファミリー)の肝煎で大倉集古館(公益財団法人・大倉文化財団)で横山大観の「夜桜」をはじめとする名画に囲まれたリサイタルが実現、旧知のご夫妻に誘われ、30代に入った「今」を聴いた。


「リゴレット」までの前半は「物語の音楽」、後半は「視覚の音楽」と明確にキャラクターを設定、解説を交えながらの演奏は10年前に比べ恰幅が良くなり、ごく自然に音楽の感興を伝える術を心得ていた。ピアノはタカギクラヴィアが調整したニューヨーク・スタインウェーのセミコンサートグランド。高度のメカニックを備えた戸室は豪快なフォルテッシモだけでなく繊細なピアニッシモにもしっかりと音の芯を通したが、いくぶん「0」と「1」に偏ったデジタル風でもあり、中間くらいの音量でゆっくり、じっくりと旋律を歌わせる距離感(ゆとり)は今後の課題と思われた。後半はかなり改善、シューマンの「アラベスク」には秘めた歌心の発露があった。2012年に「シャネル・ピグマリオン・デイズ」アーティストを務めて以後、日本で目立った活動歴がないのは大変に残念なことだ。今後、さらに大きな舞台へと進んでほしいと願わずにはいられないし、それに相応しい実力の持ち主だ。


3)泉里沙(ヴァイオリン)&奥村友美(ピアノ)Duo Recital 第2部(Bプログラム)

(9月6日、赤坂区民ホール)

パガニーニ「カンタービレ」

ショパン「幻想即興曲」(ピアノ・ソロ)

プロコフィエフ「ヴァイオリン・ソナタ第1番」

クライスラー「美しいロスマリン」

アンコール=ジョン・ウィリアムズ「シンドラーのリスト」

泉もロンドン生まれの「帰国子女」。いつも、からっと明るい音楽性に接するたびに、聴く側の気分もすっきりする。ピアノの奥村は東京藝術大学からベルリンのハンス・アイスラー音楽大学へ進み大学院まで修了。同じく東京藝大出身の泉とは同窓の友人だが、息の合ったデュオ以上に骨格のしっかりとした音楽の構築、和声感に富んだ色彩の発露で聴かせる。


とりわけプロコフィエフのソナタは入念な演奏で、モダニズムのクリシェ(通念)を超えた幻想の世界が広がり、うっとりと曲の世界に浸ることができた。奥村のソロ「幻想即興曲」も見せかけの安っぽい甘美なロマンを拒み、ショパンの作曲技法をきちんと浮かび上がらせる立派な演奏だった(ピアノはベーゼンドルファーのセミ・コンサートグランド)。「シンドラーのリスト」は本来、「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)で命を落とされた方々に捧げる」(泉の説明)アンコールのはずだったが、クライスラーを弾く前に喋り出してしまい、奥村に注意を促されると絶句。すべてが本編でアンコールなし、みたいな結末に至ったが、それはそれで、泉のチャーミングな人柄を伝える素敵なエピソードになった。


演奏会は2部構成で、第1部(Aプログラム)はフォーレ、ドビュッシー、ドヴォルザーク、チャイコフスキーの小品にシューベルトの「ヴァイオリン・ソナタ イ長調D.574」というメニューだったが、聴き逃した。会場の赤坂区民ホールはリサイタルに良く使われる港区立のホールで区役所の出張所などとの複合建築の3階にある。駐車場併設というので安心していたら「出張所に来た方限定、ホールの利用者は使えません」の張り紙あり。仕方なく付近のコインパークを利用したが、青山から赤坂にかけての国道246号線沿いは都内で最も駐車料金の高い一帯で、20分400ー600円がザラ。正味1時間の第2部だけで入場券と同額の2,000円が吹き飛んだ。感染症対策で極力、公共交通機関の利用を控え、自分の車で移動しているが、駐車場代は悩みのタネだ。こうした日々はいつまで続くのだろうか?


4)「田中理恵 ピアノコンチェルトvol.4〜中丸三千繪先生を指揮に迎えて〜」(9月6日、サントリーホール)

田中理恵(ピアノ)、中丸三千繪指揮東京ニューシティ管弦楽団

ショパン「ピアノ協奏曲第2番&第1番」

アンコール=同「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」

国立音楽大学出身の田中は合唱や歌のピアニスト、ピアノ教師として活動しながら、かなりの人脈を持っているらしい。一般の知名度は高くないにもかかわらず、サントリー大ホールで協奏曲の演奏会を満席にできるのは大した蓄積だ。歌とピアノの密接な関係からか、ソプラノの中丸にもピアノを習っている関係で、何と、中丸の「指揮者デビュー」が実現した。


「歌はともかく、指揮にはまったく自信がありません」と音楽雑誌で語っていたが、どうしてどうして、かなりの「マエストラ(イタリア語「マエストロ」の女性形)」ぶり。今は亡きソニー元会長、東京藝術大学卒のバリトン歌手だった大賀典雄さんの指揮を思い出した。もちろん「春の祭典」(ストラヴィンスキー)の変拍子を精確に振るといった意味の、バトン・テクニックの冴えがあるわけではない。長年の歌手としての経験、ペース配分から発想されたであろう基本テンポ(グルントテンピ)の一貫、自然なブレス(息継ぎ)の感覚が生むアーティキュレーションとフレージング、土俗的な東欧系リズム処理の明確さで、評価に値するポイントが多々あった。東京ニューシティ管は定期演奏会直後の「売り公演」でもあり、コンサートマスターからしてゲスト(深山尚久)だったから低弦群の響きの薄さ、一部木管ソロの音程の甘さなど、アンサンブルの綻びはあったものの、無難に仕事をこなした。


ピアノはタカギクラヴィア提供の1912年製ニューヨーク・スタインウェー「CD75」。1970年代後半からはヴラディーミル・ホロヴィッツ専用だったため「ホロヴィッツ・ピアノ」の愛称がある銘器だ。田中の打鍵力にとっては荷の重い楽器だったようで、最強音を輝かしく引き出そうと踏ん張る場面と、弱音で心をこめて旋律を歌わせる場面とで音楽が一貫しない。実は「芯の通った弱音」を強音並みの飛距離で鳴らすには、同じくらいの力が必要とされるのだが、田中は電池切れというか強音でパワーを使い果たしたというか、ヘナヘナの響きに後退するのが気になった。歌の仕事をたくさん手がけてきたピアニストらしく、随所に豊かな歌心を感じさせもしたので、もう少し自然体の脱力奏法ができれば、はるかに美しい演奏へと仕上がったはずだ。ショパンは「ロマン派」「ピアノの詩人」と呼ばれ、病弱だったから女性的なイメージも付きまとうが、実際には大きな手の持ち主で母方の祖国ポーランドへの強烈な愛国心を生涯抱き続けた。バッハのフーガを綿密に研究し、自身の作曲に生かす構造的な視点にも事欠かなかった。その骨格は、中丸の指揮が適確に押さえていた。


6月中旬の有観客コンサート再開後はどこのホールもマスク着用義務、「ブラヴォー」など歓声の自粛要請を続け、感染症対策に万全を期してきた。暑い夏に酷な気もしつつ、感染者発生で再び音楽が聴けなくなる日を恐れ、大方の聴衆は「仕方ない」と思い、規制に従っている。ところが昨夜はレセプショニストの再三の要請を無視してマスクを外したままの人、「ブラヴォー」の大声を上げた人、指定の席に座らない人がいた。厳しい言い方となるが、「かき集める」方式での「大盛況演出」はもうしばらくの間、見合わせてもいいと思う。

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