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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ノット指揮東響定期ベルク&マーラー、混沌の中をさまよう「時代の音たち」


ジョナサンの「お立ち台」

東響交響楽団第675回定期演奏会(2019年11月16日、サントリーホール)は音楽監督ジョナサン・ノット一流の凝った曲目で前半がベルクの「管弦楽のための3つの小品」(1915)、後半がマーラーの「交響曲第7番《夜の歌》」(1904ー1905=いずれも作曲年代)。休憩20分を含めると、演奏会の長さは2時間を10数分超えた。このように長いプログラム、しかも演奏至難の作品で固める際の練習として、十分な時間は確保されたのだろうか? 


ベルクの艶かしささえ漂う精緻な管弦楽をほぼ完璧に再現した東響だが、マーラーは振幅を大きくとって時に激しい追い込みも辞さないノットの即興性の高い棒にたびたび追従し損ね、アンサンブルが乱れた。「できれば翌日のミューザ川崎で聴きたかった」とも思う。それでも客席の熱狂はすさまじく、在京オーケストラの定期では珍しく指揮者1人が終演後に呼び出される「お立ち台」現象が目撃された。


その直後に舞台袖で、私はジョナサンに「Eine Grosse Nachtmusik(大きな夜の音楽、という意味でモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」のパロディ)だね。今夜は台風もなくて、良かった」と声をかけた。10月12日のノット指揮東響の演奏会も、台風で中止を余儀なくされた。ベルクを厳格かつ古典的に、マーラーをベルクとほぼ同時代の音楽として通常より前衛的に、と解釈&再現手法を整えた結果、聴衆の耳はベルクとマーラーの世界を往来しつつ時間の感覚を失い、ひとつの大きな作品を聴いたかのような錯覚に陥る。


そこに広がるのは19世紀末から20世紀初頭にかけてのウィーンの文化の爛熟であり、ハプスブルク体制あるいは調性音楽の崩壊の予感であり、希望がないわけではないにせよ、どこからともなく死臭が漂う。かなり、アブナイ世界といえる。おそらくベルクの仕上げに念を入れるあまり、マーラーのリハーサルが不足したのであろうが、混沌とした響きそのものが、第7交響曲に仕掛けた作曲家自身のトリックなのだとしたら、私には「こういう破れかぶれの演奏もありかな?」と思えて仕方がなかった。

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