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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

アメリカンなスペイン、アラン指揮都響


今年(2018年)4月、東京都交響楽団(都響)の首席客演指揮者に就いた日系米国人マエストロ、アラン・ギルバートが2018年12月18日、東京芸術劇場昼公演の「Cシリーズ定期」に登場、R・シュトラウスの「交響詩《ドン・キホーテ》」(チェロ=ターニャ・テツラフ、ヴィオラ=鈴木学)、ビゼー「カルメン」組曲(アラン・ギルバート・セレクション)、R=コルサコフの「スペイン奇想曲」を指揮した。


スペイン人作曲家は1人もいないが、題材はすべて、スペインにちなんだものだ。私は先日、似たような発想の東京ニューシティ管弦楽団定期演奏会(曽我大介指揮)プログラムの曲目解説を執筆したが、2018年の日本とスペインの外交関係樹立150周年を記念し、在日スペイン大使館の後援も得ての取り組みだったのに対し、都響は特に何もうたっていない。下位弱小オーケストラ(失礼!)の懸命の話題づくりと比較したら、何とも鷹揚というか迂闊というか、すっかり立派になった今の都響が抱えるある種の問題点も浮き彫りにされた。


演奏は後半が良かった。「ハバネラ」「闘牛士の歌」の主旋律を怖めず臆せずトランペット独奏で派手に歌い、「ジプシーの踊り」の熱狂で締めくくる。リムスキーの奇想曲は当初ヴァイオリン協奏曲として構想されたので、随所にコンサートマスターのソロが現れるが、大ベテランの四方恭子が華美さを抑え、音楽の内実に徹した堅実な味わいで「さすが」と思わせた。前半のソロを担ったヴィオラの鈴木が後半、トップに座って弾いていたのも好感が持てる態度だ。昨年、アランがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督を退任する記念にマーラーの「交響曲第7番」を指揮、彼がレギュラーで客演している世界のオーケストラから親しい奏者をゲストに招いた際、都響からは鈴木が加わっていた。私は偶然、ニューヨークの知人宅で生中継を観ていて、「面白い時代になったなあ」と感心した。


前半はターニャ、鈴木のソロが良かったし、アランの指揮も丁寧、都響のアンサンブルも盤石だっので特段の注文をつける気はないのだが、どうしても前夜に聴いたパリ管弦楽団の芳醇で香り立つ音の美を忘れ去ることができない。「世界の一流には届いたが、超一流までにはまだ」というのは都響に限らず。日本のオーケストラ全体が抱える課題だろう。


アランを最初に聴いたのは1997年の東急文化村「未来の巨匠」コンサート、東京フィルハーモニー交響楽団とチャイコフスキーの「交響曲第4番」を大熱演した。主催者側の強い希望で「後にも先にも一度だけ」(アラン)ミドルネームを入れ、「アラン・タケシ・ギルバート」と表記されていたのが懐かしい。相変わらずエネルギッシュな指揮ぶりだが、最近は音楽を慈しみながら振り進めるゆとりも生まれ、ますます目の離せない存在となっている。


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