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NHK交響楽団、ヤングな「第九」


改めて食卓に広げると、豪華な顔ぶれだ

ガラコンサートの第4楽章のみとかを除けば、今年(2019年)12月に聴く唯一の「第九」(ベートーヴェン「交響曲第9番ニ短調作品125《合唱付》」)はシモーネ・ヤング指揮NHK交響楽団の23日、NHKホールの公演だった。今さらジェンダー(性差)を論じる意味はほとんどないと思うが、自分のデータ的には、阿部加奈子指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団(2015年8月1日、ティアラこうとう大ホール。阿部の日本プロオケ指揮デビュー公演だった)、アヌ・タリ指揮東京フィルハーモニー交響楽団(2016年12月22日、東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアル)に続く3度目の、女性指揮者による「第九」の鑑賞体験だった。やがてカウントの必要もなくなるに違いない。


ヤングはクロアチア系オーストラリア人でダニエル・バレンボイムにオペラ指揮の才能を評価され、2005−2015年にハンブルク州立歌劇場&ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督を務めた。N響とは16年ぶり3度目の共演。来日直前、故郷のシドニー交響楽団の次期音楽監督への就任が内定した。2018年7月には新日本フィルハーモニー交響楽団へ客演、ブルックナーの「交響曲第4番《ロマンティック》」の初稿版を振って高く評価されたが、筆者は2016年11月の東京二期会&日生劇場、R・シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」(カロリーネ・グルーバー演出)のピットに招かれて東京交響楽団をとことんドライブ、マッチョでダイナミックな響きを造型する手腕に圧倒された記憶が強い。


N響との「第九」にも、そうした豪胆な音楽を期待したところ、(良い意味で)見事な肩透かしを喰らった。ベーレンライター社の批判全集版(1996年)の楽譜を採用したが、ごく普通のアメリカ式(ストコフスキー式)に第1&第2ヴァイオリンを舞台下手(客席から見て左)側、コントラバスを上手側に配置した。全4公演の中盤、3日連続の最終日に当たったせいか、オーケストラが少し疲れていて細かな瑕(きず)はあったものの、ヤングは鈍重な響きを慎重に避け、リズムを際立たせながら、モーツァルトを思わせる軽やかな棒さばきで第1、第2楽章…と進む。ふだん埋れがちな金管楽器のソロ&重奏による特定の動機も、くっきりと浮かび上がる。


プログラムに載った舩木篤也氏とのインタビューで「最も偉大で、最も美しい瞬間はどこでしょう?」との質問に対し、ヤングは「全部好きなのですが、第3楽章に対する特別な思いについては告白しておきましょう。穏やかで、高貴で、甘く、ノスタルジーと哀しみを含んだ音楽。それがあってから、あの第4楽章のポジティヴな気の噴出がやってくる。私はいつもそこで、微笑んでしまうのですよ!」と応えている。その言葉に嘘はなく、第3楽章に入ると、今までのヤングからあまり聴こえてこなかった、柔らかな母性の微笑みのような響きが広がった。第4楽章ではオペラ指揮者としてのドラマ感覚を最大限に発揮、おそらく深い譜読みから導き出された細かなテンポの揺れ、フレーズの強弱法(デュナーミク)などが聴き手の耳を釘付けにする。とりわけ「天使は神の前に立つ(Der Cherub steht vor Gott)」の「神の前(vor Gott)」の部分のフェルマータが単純な「伸ばし」ではなく、細やかなデュナーミク処理を伴って再現された瞬間、すべての声楽が終わり、下手な演奏だと「取ってつけた」感が突出してしまうコーダ(終結部)の自然な着地の2箇所で、指揮者の確かな力量を感じた。合唱が一時消え、ヴィオラとチェロだけが演奏する部分(マイケル・ジャクソンが「至高の音楽。ベートーヴェンは天才だ!」と絶賛した部分だ)からも、形而上の(メタフィジカルな)響きが、鮮やかに立ち上った。


4人の独唱者ーーソプラノのマリア・ベングトソン、メゾ・ソプラノの清水華澄、テノールのニコライ・シュコラ、バス・バリトンのルカ・ピサローニも、みなオペラでのキャリアを実感させる声の持ち主ながら、指揮者よりも前方で歌う結果、4声のアンサンブルの求心力が犠牲になった。清水は外国人ゲストに遜色ない力量で「第九」出演歴も豊富だが、1人で野に放たれると、コントロールの甘くなる傾向には改善の余地がある。合唱は東京オペラシンガーズ(熊倉優指揮)で80人超の大編成。年末の日程をブッキングする時点で、本番指揮者の解釈の傾向までは予測がつかないし、巨大なNHKホールの空間を満たすには、それなりに多勢の合唱が必要なのも理解できる。1人1人が国内オペラ上演で主役を務める歌手の集団なので、音量は圧倒的であり、発音も明瞭だ。半面、今回ヤングが提示した軽やかでリズムの際立ったアプローチに対しては、やや過剰性能ではなかったか? 合唱の絶叫が管弦楽の和声感や音色の綾をマスクしてしまう場面が多々あったのは残念だった。40ー60人くらいに絞った方が、各声部の音の線も明瞭になったと思うが、人海戦術のマッチョな音響もまた指揮者の解釈の一部だったとしたら、何をか言わんや。「歓喜」のエクスタシー高揚に貢献したことを以て、「終わり良ければすべて良し」と考えた方が幸せかもしれない。

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