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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

Mittelstand(中堅)とは言うけれど…真夏の「ブラ1」対決、軍配はどちらに

更新日:2019年7月4日


ついでに拙文も、ご一読いただければ。

2019年7月第1週の月曜日(1日)と水曜日(3日)、東京はサントリーホールでクリスティアン・アルミンク指揮ベルギー王立リエージュ・フィルハーモニー管弦楽団、ミヒャエル・ザンダリンク(←これが一番、現代ドイツ語の発音に近いカタカナ表記。日本風にザンデルリンクと発音しても、ドイツ人には通じない)指揮ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団がこぞってメインの曲目として、ブラームスの「交響曲第1番」を演奏した。ともにドイツ語圏の出身でウィーン生まれのクリスティアンが48歳、ベルリン生まれのミヒャエルが52歳と年齢的に近く、後者は30代でチェロから転じたので指揮者のキャリアもほぼ同じ時間数の中堅(Mittelstand)世代に属する。さらに2人とも今シーズン限りでシェフを退くから「卒業制作ツアー」の意味あいまで共有、単に音楽解釈だけでなく、オーケストラ・ビルダー(育成者)としての腕前すら競わされる、過酷な「真夏の夜の悪夢」となった。


結論から申し上げて、ミヒャエルとドレスデンの圧勝だった。オーケストラのレベルが違いすぎる。世界最古の楽団の1つ、ザクセン州立シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン州立歌劇場管弦楽団=旧東ドイツ時代は国立だったが、戦後の旧西ドイツはナチス式の中央集権を徹底して排除、文化教育行政は日本の「国」に相当する連邦から州に移管されたため、国立の歌劇場や音楽大学は存在しない。ドレスデンの歌劇場も1990年のドイツ再統一後、ザクセン州に管理が移管された)の古雅な響きには一歩譲るとしても、いかにも南ドイツ風の明るい弦の音色、管楽器奏者の1人1人が「分」をわきまえてアンサンブルを重視、決して嫌な音を出さない美徳に感じ入る。ミヒャエルは国際コンクールに優勝、旧東ドイツの2つの名門オーケストラで首席を歴任したチェロの名手だけに、低弦に実に克明なニュアンスを与える。ヴァイオリンは第1、第2とも12人、ヴィオラが10人、チェロが8人、コントラバスが6人と「ブラ1」にしては細身の編成ながら、響きは全く痩せていない。管楽器は2管が基本で、ホルンだけが前半、同じ作曲家の「ヴァイオリン協奏曲」から一貫してオリジナルの4本だった。3人のトロンボーン奏者が現出させた力みなく美しいハーモニーからは、北ドイツ出身のブラームスの音感の根幹に、バッハやブクステフーデらのオルガン音楽がしっかり息づいていた実態がまざまざと感じられた。女性上位の木管グループの熱く積極的な献身、第2楽章における女性コンサートマスター(コンサートミストレスという女性呼称は近年、差別的とされて殆ど使われなくなった)の芯を伴った美音のソロも、賞賛に値する。ミヒャエルの情熱的リードは時にオーバーシュートをみせつつ、大成を予感させた。


一方のクリスティアンとリエージュ。ドイツでもフランスでもない、「wirklich in der Mitte(まさに中間)」と指揮者自身が語った固有の音色は、世界のオーケストラの均質化が進む現状では「希少品種」の名に値する。それなりの魅力と香りを放つ弦の素晴らしさに対し、管は独特の「方言」にこそ魅力があるものの下手すぎる。中途半端に自己主張するよりは、もう少しアンサンブルというか、少なくとも同一セクション内の音色やフレージングの統一に最低限の関心は払ってほしいと思った。若いルーマニア人コンサートマスターの腕は立つが、第2楽章のソロではテンペラメントが走り過ぎ、ブラームスの世界を逸脱していた。クリスティアンの指揮自体は、悪くない。新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督だった時期に比べ、棒さばきの安定を増し、ウィーン仕込みのブラームスを堂々と奏でる意思も一段と明確になっていた。だが編成が大き過ぎたのか、トゥッティ(総奏)での混濁は「書法マニア」のブラームスが26年がかりで織り上げた複雑極まりない音の線の数々を曖昧にしてしまったのが惜しまれる。楽しそうに振るクリスティアンを見ていて、私が思い出したのは、皆さんが記憶している以上にブラームスを得意とした偉大なMittelstandのマエストロ、今は亡きラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスだった。ちょっと複雑か。


2つの演奏会の前半には、協奏曲が組み合わされていた。ドレスデン・フィルはシンプルに同じ作曲家がヴァイオリンのために書いた協奏曲で、これまた1983年生まれのドイツの中堅、ユリア・フィッシャーが独奏した。ピアニストでもあり弦楽四重奏団も主宰するマルチタレントの「見出し」とは裏腹に才気走ったいやらしさのかけらもなく、音量を繊細にコントロールしながら出過ぎず引っ込み過ぎず、バロックの合奏協奏曲からロマン派まですべてのコンチェルトの様式に通暁したブラームスの意図を的確に再現、第2楽章の管楽器との室内楽的対話をはじめとして、ピアノのための作品も含めて「独奏つき交響曲」と揶揄されることがあるブラームスの協奏曲の独自性をどこまでも尊重した秀演だった。私がフランクフルト・アム・マインに転勤した約30年前に比べると、ドイツ人は酒も肉も塩も大幅に控えてベジタリアン、さらに過激なビーガンの食生活に激しくシフト。環境保護を訴える「緑の党(Die Gruennen)」の躍進も目覚ましく、ユリアのソロには環境への優しさを覚えた。アンコールのパガニーニ、「奇想曲第2番」でみせた技の冴えはまさに、伝家の宝刀だ。


リエージュ・フィルの演奏会では、冒頭に1894年、24歳で夭折した地元出身の作曲家ギョーム・ルクーの「弦楽のためのアダージョ」が置かれた。日本とベルギー、両国の文化交流の趣旨を反映した好選曲だった。より演奏頻度が高い「ヴァイオリン・ソナタ」にも通じる優美な旋律の展開の果て、突如として現れる低弦の「ざわめき」に死の香りが漂った瞬間、背筋がぞっとした。前半メインの協奏曲も、モーツァルトに2つしかない短調のピアノ協奏曲の1つ、「第20番ニ短調K466」と死の影が忍び寄る。


独奏は小林愛美。時系列を逆転させ、アンコールからコメントしよう。ショパンの暗い「マズルカ第13番」は十八番(おはこ)なのか、死の匂いまでを的確に探り当て、かつて「天才少女」と呼ばれた時代以来の才能の所在を明確に印象付け、見事だった。だがモーツァルトは、その天分に余りにも依存する演奏に終始した。第2楽章で活躍する木管楽器との掛け合いでは、ユリア・フィッシャーのように懸命な音楽の会話を試みるが、呼吸が合わない。何故か? 理由は明白だ。時代を超越したように見えるモーツァルトですら18世紀の作曲家、その再現では当時楽譜に書かれていなくても当たり前の約束事だったあれこれを知識として把握、きちんと伝える必要があるのに、小林は楽譜に忠実以上の再現をしていないのだ。例えばアクセント。18世紀音楽の99%は頭拍(フレーズの第1音)にアクセントがあり、解決音あるいは最後の音はフワッとアーティキュレート(分節)する。小林はフレーズの入りを自然体として、終わりをバッチリ強調するので、恐ろしくモーツァルトのスタイルと乖離してしまう。繰り返すが、随所に彼女の並外れたポテンシャルを感じさせつつも、今や国際標準となったHIP(歴史的情報に基づく演奏解釈)の部分が余りにも曖昧なのは痛恨の極みであり、今まで師事した先生たちの教養の限界すら、思わずにはいられなかった。もったいない! このままでは、世界市場での生き残りが危ぶまれると心底、心配になった。


ちなみに私、リエージュ・フィルは会場販売の演奏会プログラム、ドレスデン・フィルはベートーヴェンとショスタコーヴィチそれぞれの「交響曲第5番」を1枚に収めた最新盤(ソニー)の解説書に一文を書かせていただいているので、かなり変なテンションで実演に立ち会っていた。嘘つきでなかったら、良いのだけれど。






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