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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ようやく実現した新国立劇場の「マイスタージンガー」、伊藤達人が最大の収穫

更新日:2021年12月3日


プログラムは、ほのぼの系だったけど

東京オリンピック&パラリンピック2020にちなむ東京文化会館、新国立劇場共同の文化プログラム「オペラ夏の祭典2019ー20」は2019年に「トゥーランドット」(プッチーニ)を上演、2020年は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(ワーグナー)の予定だった。だがコロナ禍で1年延期、さらに今年8月の東京文化会館は関係者に陽性者が出たために開催寸前で苦渋の中止。11月18日の新国立劇場でようやく幕を開け、12月1日まで5公演を無事に完走した。大団円までのすべての関係者の努力、無念から安堵に至るまでの思いを察すれば、何か批評をすること自体が失礼ともいえる半面、今までに観てきた同じ作品の様々な演出の記憶に照らし合わせれば、かなり問題を含んだプロダクションだったことも確か。「終わりよければすべて良し」と手放しで絶賛するのは気が引ける。ドイツのゼンパーオーパー(ザクセン州立ドレスデン歌劇場)、ザルツブルク・イースター音楽祭と東京文化会館、新国立劇場の共同制作でイェンス=ダニエル・ヘルツォークの演出。セットはゼンパーオーパーの舞台裏を模し、主役ハンス・ザックスは靴づくりのマイスター(親方)ではなく、演出家として描かれる。


いわば「オペラハウスの楽屋オチ」のパッケージに登場人物を押し込めてしまったことで、マイスター制度の閉鎖的側面と内部崩壊を視覚化することには成功したものの、ワーグナーの国粋主義的な意図やストーリーの強引さを超えたところで奇跡的に醸し出される大らかな音楽、ふとした喜劇性といったものが姿を消した。ワーグナーと同時代の価値観ではなく、その後の時代ーーとりわけナチスのヒトラー総統が偏愛、自身の思想と力づくで合体させ、特定民族や少数者を排除した歴史の否定が前面に出てくると、作品像が大きく歪む。トーマス・ヨハネス・マイヤーのザックスは神経質に苛立って包容力に欠け、シュテファン・フィンケのヴァルター・フォン・シュトルツィングは余裕ない歌も相まって、傍若無人なテロリストを思わせる。


エーファの林正子は2002年の二期会50周年記念公演(ベルギー・モネ劇場のクルト・ホレス演出を使用)での同役(佐々木典子とのダブル)に比べ声の威力が明らかに低下したが、「何を考えているのか判らない女性」の不気味さは良く出していた。最後の最後でエーファがザックスから手渡されたマイスターの肖像画をビリビリに破り、顎をしゃくり上げてヴァルターに「行くわよ!」と合図、2人して歌合戦の会場(ここでは歌劇場)を去っていく場面には衝撃を覚えた。日本よりヨーロッパで先に上演したにもかかわらず、ごく最近ロイヤルファミリーを離脱、ニューヨークへ飛び立った某国プリンセスと二重写しだったからだ。


ヘルツォークが「最高に権威と知性のある人間が残酷でコミカルに懲らしめられる」「支配的秩序による弊害のスケープゴート(生贄)」ととらえ、非常に説得力のある人物像を提示したのはベックメッサー。多くの演出家が道化のように扱い、コミカルに演じる歌手が主流のなか、アドリアン・エレートが「自己失墜の悲劇性」の象徴を陰影深く歌い、演じた。新たなベックメッサー像を造形した部分が、この演出で最大の収穫だったかもしれない。他のマイスターにも国内屈指の実力者が並んだが、「旧秩序の象徴」と一からげに扱われ、衣装も地味なので個性を発揮するまでに至らず気の毒だった。望月哲也の降板で急きょダーヴィットを歌った新進テノールの伊藤達人は第1幕の早口ドイツ語の長大な出番こそ緊張の極にあったものの次第に調子を上げ、第3幕では外国人ゲスト歌手に負けない存在感を示した。


音楽学者の瀧井敬子先生が山形県長井市(独バート・ゼッキンゲン市の姉妹都市)で「ゼッキンゲンのトランペット吹き」(ネッスラー作曲、ドイツ留学中の森鴎外が夢中になった当時の人気オペラ)日本初演を企画した2006年、アシスタント・プロデューサーを務めた私は、合唱の応援に加わった東京藝術大学音楽学部2年生の伊藤と知り合い、成長を見守ってきた。新国立劇場オペラ研修所を経てベルリンに留学、帰国後は着実に活躍の場を広げているが、まさか今回、ダーヴィッドのような大役でブレイクするとは思わなかった。2023年7月には東京二期会の「パルジファル」題名役も決まっており、一気に認知度を上げそうだ。


管弦楽は新国立劇場オペラ芸術監督の大野和士が、音楽監督を兼ねる東京都交響楽団(都響)を自ら指揮した。ヨーロッパ各地の歌劇場でシェフを歴任したオペラ指揮者だが、シンフォニー・オーケストラの都響を起用したことで、声との密着には相当苦吟した模様だ。歌を支えながらドイツ語を際立たせようと懸命になるとテンポが落ち、長大な作品をザクッと一気に聴かせる推進力が停滞する結果、30分の休憩2回をはさんだ上演時間が6時間を超えたのには驚いた。私が観たのは11月18日だったので都響も含め、初日特有の硬さがあったのかもしれない。都響は時間の進行とともに求心力、柔軟性の両面でみるみる改善、第3幕では日本屈指のメジャー・オーケストラにふさわしい緻密な響きを聴くことができた。






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