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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

鷲宮美幸→花房晴美→仲道郁代、何故か桐朋学園出身の女性ピアニストをハシゴ


2021年5月最終の週末は鷲宮美幸、花房晴美、仲道郁代と、桐朋学園出身の女性ピアニスト3人の演奏会を偶然ハシゴした。すでに十分な演奏経験を重ね、独自の世界を確立した名手たちなので三者三様、結果としてピアノが持つ果てしない可能性も確かめることができた。


1)鷲宮美幸「名曲ピアノリサイタル」(2021年5月28日、稲城市立iプラザホール)

中央道を走って調布を過ぎると「稲城大橋」の出口表示が目に入るが、出たことはなかった。鷲宮がコロナ禍に疲弊する親しい人たちに束の間の安らぎを与えようと企画した休憩なし、1時間の名曲リサイタルは多摩ニュータウン一角の京王相模原線若葉台駅前のホールを選び、高齢者にも出かけやすい午後5時半の開演とした。品川からは車で1時間余りの距離だ。曲目は別掲の通りで、トータル50分弱。アンコール3曲(マリアーノ「クリスタル」、平井康三郎「《さくら》変奏曲」、ロータ「太陽がいっぱい」)を合わせ、本当に1時間で終わった。金曜日の夕方に来場できるのは、確かに年配者で、それぞれがピアニストとつながり、長く聴き、演奏活動を支援してきた人たちだった。


演奏も親しい人々に語りかける優しさを保ちつつ、後半のラテン系作品では叱咤激励の鼓舞もあり、心にしみた。ダイナミック、リズミカルな場面はもちろん、メンデルスゾーンやショパンをたっぷりと歌わせる呼吸も含め、よく考え抜かれていた。iプラザホールは音響、備え付けスタインウェイのコンディション、それぞれが優れ、中村紘子生前最後のセッション録音(ショパン「マズルカ」集)をはじめ、ディスクの収録会場としても定評がある。


2)花房晴美室内楽シリーズ「パリ・音楽のアトリエ〈第19集“田園へのいざない”〉」(5月28日、東京文化会館小ホール)

ピアノ=花房晴美、ヴァイオリン=徳永二男、チェロ=向山佳絵子

稲城で「太陽がいっぱい」を聴き終え、ホールを出たら雨だった。おまけに中央道の集中工事が午後6時開始という信じられない時間帯に設定され、稲城から高井戸まで1時間。花房室内楽の前半、チャイコフスキー「四季」からの2曲とラヴェルのトリオを聴き逃した。後半のメンデルスゾーン「ピアノ三重奏曲第1番」は常設の室内楽トリオとは全く違う感触の演奏。コンサートマスター、ソリスト、プロデューサー、指導者…と経験豊かな徳永の勘所を押さえ、大局的に枠を整えると、向山は積極的に自身の大きな歌をぶつけてくる。花房は両者の間に立って、広がりと形のバランスを巧みにとる。ドイツ系の教育を受けたピアニストとは異なるパッションの解放、音色の選択、トリルの煌めきなどを通じ、メンデルスゾーンがパリの室内楽サロンに現れたような面白さがあった。アンコールにはドビュッシー「前奏曲集第1巻」の第8曲「亜麻色の髪の乙女」。デリケートにチャーミングに奏でられた。


3)仲道郁代ピアノ・リサイタル「幻想曲の系譜ー心が求めてやまぬもの」(5月30日、サントリーホール)

モーツァルト「幻想曲ハ短調K.475」

シューマン「幻想曲ハ長調作品17」

ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第28番イ長調作品101」

シューベルト「さすらい人幻想曲ハ長調D.760作品15」

アンコール:ドビュッシー「前奏曲集第1巻」〜第8曲「亜麻色の髪の乙女」


本編全部を聴き終え、ベートーヴェンの〝強さ〟〝健全さ〟は他の3人(モーツァルト、シューベルト、シューマン)とは全く異質というか別格なのだと気づく。絶えず地上以外の世界と交信する不穏なモーツァルト、愛と絶望の谷間で身悶えするシューマン、極度の躁鬱に死が忍び寄るシューベルトと比べ、ベートーヴェンは耳疾の不幸こそあったにせよ、はるかに正常(ノーマル)な楽曲を書き続け、最終的な浄化に至ったのだと思い知った選曲だ。


ピアノはヤマハのCF-Xを持ち込み。やや粘り?のある音色と、音響が〝回転〟するサントリーホールのワインヤード(ぶどう畑)型構造の相性は必ずしも抜群とはいえない。聴き手の感情移入を別として、作曲様式はまだ18世紀音楽の客観性の範疇にあるモーツァルトには個々の音、音型の粒立ち、明瞭度が欠かせないが、今回のピアノとホールの組み合わせではなかなか難しい課題と思えた。玲瓏な音の世界に広がる幻想、の一歩手前の隔靴掻痒感!


シューマンで一転、壮大なドラマが始まった。純粋すぎるがゆえに傷つき、死を考え、再び生への力を回復する過程で愛を一段と強く意識する…といった作曲者の思考回路を仲道は克明に追っていく。歌曲集「女の愛と生涯」、ピアノ曲「クライスレリアーナ」「幻想小曲集」など他のシューマン作品にとどまらず、引用したベートーヴェンの歌曲「遙かなる恋人に寄せて」にも網を広げた「心の捜索」を通じ、楽曲にこめられたロマンだけでなく、狂気も漏れなく明るみにさらす。第2楽章終わり近くの「ごちゃごちゃの響き」を「結婚式のベルと弔鐘が同時に鳴る」音楽として極限まで自分を追い込んで弾く気迫に、息をのんだ。運指も何も崩壊寸前のところまで全力で疾走しながら、きちんとプロの演奏に仕上げていた。


ベートーヴェンは第3楽章前半、「ゆっくりと憧れに満ちて」、アダージョ・マ・ノン・トロッポ、コン・アフェットがとりわけ秀逸だった。右手の弱音トリルが放つ輝き、極端に音量を抑えたにもかかわらずホールの隅々まで届く芯のある弱音奏法は仲道が工夫に工夫を重ね、比較的最近到達した境地だと思える。本人はこの箇所について、「神に向かって、密やかに、でも人間の力を信じて、でも密やかに聴いている、そしてベートーヴェン自身がソフトペダルを踏み続けるようにと指示しているーー世界が開ける前の緊張感あふれる素晴らしい箇所です。そこが閉じた世界でないと次も開けません」と語っている。ここに現れたメタフィジカル(形而上的)な音響は、ベートーヴェン最後3つのソナタと明らかに直結する。


「さすらい人幻想曲」を楽曲両端のパワフルなリズムと音響の側から弾くと、とんでもなく内容空疎な作品に響くが、仲道はその愚を犯さなかった。明らかに第2楽章アダージョ、自作の歌曲「さすらい人」の主題と6つの変奏を通じて繰り広げられる躁鬱、ジゾフレニア(統合失調症?)を全曲の〝肝〟と見据え、シューベルト特有の憧れ(Sehnsucht)、孤独(Einsamkeit)、心地よさ(Gemütlichkeit)の頻繁な交代が時に絶望(Verzweiflung)をヒットする瞬間を見逃すこともなかった。絶望の深淵から憧れとともに立ち上がる過程でなおも往来する孤独を、絶妙なクレッシェンドの呼吸で再現した。凄いリサイタルだった。

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