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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

豊嶋泰嗣、満を持してバッハ連続演奏会


学生時代からの友人、チェンバロの中野振一郎(左手前)とは誕生日も近いが、本格的な共演は3年前からだ

1986年に桐朋学園大学音楽学部を卒業したのと前後して新日本フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターに就いて以来、日本各地の交響楽団や音楽祭オーケストラのリーダーとして活躍してきた豊嶋泰嗣が2019年11月から12月にかけて、J・S・バッハの作品だけによる3回連続の演奏会を京都市内で開く。


「20年以上、借金返済のために夢中で働き、『あんな仕事までしなくていいのに』と後ろ指を指されたこともありました」。なぜ55歳の今、「バッハとの真剣勝負に挑むのか?」と尋ねたとき、豊嶋からは予想外の説明が飛び出した。若くして責任ある地位に就き、清水の舞台から飛び降りるような覚悟で高額の名器ストラディヴァリウスを購入、「莫大なローンを返済するために長年、がむしゃらに働くしかなかったのです」と明かした。「全額完済して完全に自分の楽器となり、手にもなじんだところで改めて、バッハの大きな世界と向き合う気持ちになりました」。日本を代表する名手の1人が楽器のローン返済に追われ、ワーカホリックとならざるを得ない現実を思い知り、ゾッとする以上に悲しくなった。


それでも、バッハへの思いは抱き続けてきた。「新日本フィルではシモン・ゴルトベルク、ゲルハルト・ボッセ、アレクサンダー・シュナイダーら旧世代の老大家や、ピリオド(作曲当時の仕様の)楽器の旗手だったフランス・ブリュッヘンら世界的なバッハ解釈者の下で演奏する機会がふんだんにありました。実は学生時代にも、ヘルムート・リリングが明治学院大学と組んで行っていたバッハ・アカデミーで《マタイ受難曲》や《ロ短調ミサ曲》の演奏に加わった経験があり、長く思い入れのある作曲家でした」


「ヴァイオリン科の音楽学生にとって《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》は必須なのですが、チェンバロとの6曲のソナタ全曲に触れる機会は、ほとんどありません。私も今年(2019年)3月の東京・春・音楽祭の期間中に、東京国立博物館の平成館で学生時代からの友人のチェンバロ奏者、中野振一郎さんと共演したのが、全6曲を人前で弾いた初めての機会です。ペース配分がわからず、何度も折れそうになりながら、完奏しました。その後、愛知県東海市でもう一度共演した後、オクタヴィア・レコードが同じ会場(東海市芸術劇場ユウナル東海)でセッションを組み、CDに収めました」


2人は昭和39年(1964年)3月の早生まれどうしで桐朋も同学年だが、生まれは豊嶋が東京、中野が京都、楽器は豊嶋がモダン(現代の仕様)の弦楽器、中野がピリオド(作曲当時の仕様)の鍵盤楽器と異なるため、デュオで共演する機会はなかった。「京都市立芸術大学の教授に就任して京都で過ごす時間が長くなって、中野さんと会う機会も増え《一度は共演してみないか》と何度も話し合って3年前(2016年)、東京のHakujuホールで実現しました。せっかくなら僕にとって未体験のオール・バロックで行こう、となり、学生時代から親しんだバッハやヴィヴァルディを中心とするプログラムに。ともにデビュー30周年の記念イベントでもありました。次はバッハだけで…と考えるうち、ひらめいたのです。自分のストラディヴァリウスは1719年製だ!と。楽器の300歳に合わせ、ひたすらバッハと向き合うのは素晴らしいアイデアだと思います。どうせなら無伴奏全曲だけでなくチェンバロとのソナタも全曲、中野さんを交えたアンサンブルとの《ヴァイオリン協奏曲集》もと意欲がどんどん高まって、3回連続の演奏会に発展しました」


今のストラディヴァリを「ちゃんと鳴らせるまで」に、5年を費やしたという。満を持してバッハの世界へ進むに当たり、最初は「自分のためにやる」と割り切り、「これが最初で最後」のつもりで飛び込んだ。だが、弾けば弾くほどに奥行きも味わいも深まり、「人生をかけたライフワーク」だと、目標を改めた。「技術と精神のバランスをとりながら、自分を納得させられるだけのバッハを目指していきます。バッハに取り組むということは、自分自身の今後の方向性を考えることでもあるのだと、今は痛感しています」


3回の演奏会はすべて週末マチネ(午後2時開演)。11月9日の無伴奏、11月23日のソナタが西京区の青山音楽記念館バロックザール、、12月1日の協奏曲が中京区の京都府民ALTI(アルティ)と会場が異なる。主催と問い合わせ先は、エラート音楽事務所 ↓



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