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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

芥川也寸志・團伊玖磨・黛敏郎の「3人の会2021」オペラ「美濃子」が出現!


副題は「戦後音楽を彩る3人の会を聴く」

2021年10月19日。午前11時のアポイントメントで名古屋にインタビューの仕事、午後4時半に品川の自宅に戻り、豊洲シビックセンターホール7時開演の「日唱特別演奏会 3人の会2021」に車を運転して出かけた。どうしても三島由紀夫唯一のオリジナルのオペラ台本、黛敏郎が冒頭部分だけで作曲を中断したまま60年近く未完のまま放置されている「美濃子」の断片を聴きたかった。今回の演奏会の企画構成司会を担当した西耕一がプログラムに書いた解説を先ず、貼り付ける:

日生劇場はカール・ベームらが指揮したベルリン・ドイツ・オペラ初来日公演で1963年に開場したが、浅利慶太や三島、黛、石原慎太郎ら同劇場立ち上げに集まった当時先端のクリエーターたちは「時経ずして日本からも最高の新作オペラを生み出す」という構想も同時に打ち出していた。黛の多忙、三島の自決などで「美濃子」は完成の機会を逸した。私は指揮者の若杉弘が亡くなる直前「『美濃子』の実現の夢はタクちゃん、君たちの世代に託すよ」と無茶振りされて以降、自腹でドイツ語訳、英語訳を作らせて、海外出張の度に歌劇場関係者や指揮者、作曲家、演出家にサウンドしてみたが皆、あまりに気宇壮大な三島ワールドに気圧され、二の足を踏んだ。最後はケント・ナガノに後事を託して撤退したが、ケントも多くの作曲家に断られ、私の顔を見るたびに「すまない」。三島自筆の原稿は今も、日生劇場の神棚に鎮座しているという。西と2人であるピアニストを訪ね、黛のスケッチを弾いてもらった時も見当が付かなかったのだけど今回、室内合唱団「日唱」の素晴らしい合唱とソロ、松元博志の渾身のピアノ、白井智朗の適確な指揮を通じ、かなり面白い開始だと知った。ただ、この調子で4時間近くは持たないだろうし、アリアや管弦楽だけの場面など、オペラの「お約束事」とどう折り合いをつけていくものなのかは依然、判然としなかった。


黛作品では他に「交声曲《慈母観音讃歌》」(1975)の作詞者名にギョッとした。橋本登美三郎(1901ー1990)! 自民党の大物政治家で閣僚ポストを歴任、運輸大臣時代にロッキード事件全日空ルートの受託収賄容疑で逮捕された。その贖罪意識もあってか、郷里の茨城県潮来市で慈母観世音菩薩の御堂建設を推進、落慶法要で録音再生するカンタータを黛に委嘱し、橋本自身が作詞したという。1977年には観音堂の法要で、暴漢に刺された。さらに「カンタータ《祝婚歌》」(1959)は当時の皇太子(現・上皇)ご夫妻のご成婚を祝い、三島の作詞で作曲した。前者のわかりやすさ、後者のわかりにくさの対照も黛らしい。


前半も、日本の戦後を象徴する2曲。芥川也寸志の「混声合唱組曲《砂川》」は1957年に在日米軍が東京の立川飛行場を拡張するため、砂川町(現・立川市)の田畑を強制測量で踏みにじったことに端を発した「砂川事件」への抗議をテーマに作曲、同年12月13日の「日本のうたごえ祭典」(東京都体育館)で初演した。砂川事件、うたごえ運動などのキーワードからは強烈な音楽、いきりたった言葉を想像するが、芥川の楽想の基本は明るく力強い、戦後民主主義讃歌であり、それを台無しにする行為への静かな怒りがしかと根底を貫く。


團伊玖磨の「混声合唱組曲《筑後川》」は1968年、福岡県久留米市の久留米音協合唱団の5周年記念に同市発祥の大企業ブリヂストンの石橋幹一郎社長(当時)が義兄の團に作曲を委嘱、福岡の医師で詩人の丸山豊が歌詞を書き、大当たりした。芥川の《砂川》が左翼系うたごえ運動の記録なら、團の《筑後川》は地域に根ざした財界系文化支援の産物。戦後の日本ではある時期まで共産党系の労音、創価学会系の民音、財界系の音協といった鑑賞団体がクラシック音楽の普及を競い、新作委嘱やアマチュアの活動支援も積極的に行なっていた。初演後半世紀以上を経た今、成立の経緯は経緯として、作品自体の芸術的価値を改めて評価する機は十分に熟しており、今回の演奏会は、そのポイントをうまくとらえていた。女声10人、男声9人の日唱はマスク着用、1.5メートルの社会的距離の設定ながら、プロならではの和声感、日本語の明瞭さを保ち、大健闘だった。


会場には團に作曲を師事した「マジンガーZ」などの作曲家で96歳の渡辺宙明も現れ、西に促され、團の思い出を語った。なんと凄い「おまけ」であろうか!

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