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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

竹澤恭子の原点&到達点の「オールB」


ヴァイオリンの竹澤恭子が2018年11月8日、紀尾井ホール主催で「デビュー30周年、世界のKYOKOの軌跡をたどる夕べ。」と銘打たれたリサイタルを開いた。ピアノはイタリアの名手、エドアルド・ストラッビオリ。結論を先に述べれば、堂々の横綱相撲を繰り広げた。


選曲も重量級。ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ第10番」とバルトークの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」が前半。後半はブロッホの「バール・シェム」と再びベートーヴェンのソナタで「第9番《クロイツェル》」。終演後に別の予定があり、アンコールを聴けなかったのは残念。本編の作曲家3人すべて、苗字のイニシャルは「B」。竹澤がベートーヴェン最後のソナタに自身の到達点を示し、バルトークで上昇軌道、ブロッホで出発点を回顧したのち、「クロイツェル」でさらなる挑戦を宣言したと解読できるような構成だった。


ベートーヴェンの「10番」は私にとって長い間、謎の作品だった。「クロイツェル」までの全ソナタと異質のスケールを備えているのは理解できても、いったい何を言いたいのか、わからないでいた。最後の弦楽四重奏曲である第16番が、第1〜15番の流れと隔絶された極点に立つ印象を与えるのに似ている。実際には、何のことはない。聴き手のベートーヴェン体験が深まれば深まるほど、しみじみとした味わいが流れ出るような仕掛けが、若いころの自分には聴き取れなかっただけだ。昨夜の竹澤の演奏は開始から脱力が行き届き、柔らかく透明な弦の音色がピアノのクリスタルな輝きと絡み、解脱に等しい作曲家の融通無碍の境地を克明に再現した。様式感にも抜かりはなく、腕っ節の強いソリストのガンガン弾きは影を潜め、この時代のヴァイオリンとピアノのためのソナタに顕著なソロとオブリガートの交替を的確に実行。ピアノのソロにヴァイオリンがオブリガートで「潜る」部分の弱音の美しさに、竹澤の進境を実感した。もちろん類まれな集中力といった本来の美点も健在で、第2〜第3楽章の一貫した流れは見事だった。第4楽章の民謡風主題の人懐っこさ、変奏の描き方も確かで、実力派デュオの真価を全開にしての着地となった。


竹澤が世界を制覇していく過程で切り札としたバルトークの無伴奏。弦の音色は一転して太く激烈となり、芸術家と同時に求道者の様相を深めていく。集中力は一段と上がり、表層のバーバリズムや民族色、不協和音を超えた先のスピリチュアルな透明さにおいて、バッハへの接近を意識させた。次のブロッホでは音の太さはそのままに、ユダヤの旋律を心から歌い上げる温かさが加わり、強い共感を示した。3曲のキャラクターの描き分けも確かだった。



最後の「クロイツェル」は2人とも全力投球の疲れが出たのか、第1楽章冒頭の無伴奏の序奏では幾分かの音程の揺れと音色の乱れを伴い、ピアノが入って以降も両者、力で押し切ろうとする場面が散見されたので心配したが、まもなく持ち直し、安心した。「綺麗事で終わらせまい」とする気迫の凄みを体感するうち、この楽章がベートーヴェンのあらゆる作品の中でもとりわけの凶暴さ、狂気を秘めているとの思いを強くした。それが人の心をかき乱す様をロシアの文豪トルストイは小説「クロイツェル・ソナタ」に著し、モラビアのヤナーチェクは原曲と小説の両方を踏まえて弦楽四重奏曲第1番「クロイツェル・ソナタを読んで」を作曲した。時代とジャンルを超えた創作の源泉、とりわけ狂気を竹澤、ストラッビオリはとことん究めていた。第2楽章は平常心に回帰?、オブリガートの巧みさに再び感心した。第3楽章では天翔ける舞曲の世界に音楽が大きく羽ばたいた。全体を振り返り、改めて第1楽章の異常、難易度の高さに思いをはせた。女性巨匠=マエストラと呼ぶにふさわしい出来栄えだが、30周年は1つの通過点、竹澤には「まだまだ先がある」と期待できる素晴らしいリサイタルだった。(2枚目の写真は昨年3月、王子ホールで撮影。素顔の恭子さんは、とても可愛らしい方です)

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