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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

「死の音楽」をきっちり描いたバッティストーニの「アイーダ」


神奈川県民ホール、札幌文化芸術劇場、兵庫県立芸術文化センター、大分のiichiko総合文化センターの全国4ホールと東京二期会、札幌交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団が「グランドオペラ共同制作」と銘打った「アイーダ」(ヴェルディ)の横浜初日を10月20日、神奈川県民ホールでみた。指揮はアンドレア・バッティストーニ、舞台はマウリツィオ・ディ・マッティアの原演出をジュリオ・チャバッティが再演出したもので大道具と衣装、小道具はローマ歌劇場の製作。全国を短期間に回すこと、札幌は新劇場のこけら落としで管弦楽も札幌交響楽団に替わることなどを考慮すれば、新国立劇場の開場記念(1997年)にフランコ・ゼッフィレッリが演出した豪華絢爛の舞台と張り合うわけにも行かず、簡素な設定となったのは理解できる。だが現代のオペラの視覚としては異例なほどに人が動かず、人数の多さばかりが目立ち、あまりに物足りない。幸い指揮もキャストも素晴らしいので頭のスイッチを切り替え、装置・衣装付きの演奏会形式上演⁈と割り切り、音楽に集中することにした。


バッティストーニの指揮は期待以上だった。週末の横浜は駐車場が混雑するので早めに着き、演出助手の菊池裕美子さんを楽屋口に呼び出すと、すぐ先の喫煙ルームでマエストロがどっかり腰を下ろし、タバコとメールを楽しんでいた。余裕しゃくしゃくなのかしら(笑)

24歳の時に東京二期会の「ナブッコ」で東京フィルを指揮して鮮烈な日本デビューを飾って以来、彼の指揮するヴェルディは激烈さ、大きな歌心で評判をとってきた。「アイーダ」の「凱旋の場」も、ガンガン爆発するに違いないと期待した人は少なくなかったはず。だが31歳となったバッティストーニのつくる音楽は、はるかに成熟した佇まいを備えていた。


これから展開する物語のプレゼンテーションの性格を持つ第1幕は「あれ?」と思うほど抑制を利かせ、第2幕第1場のアイーダとアムネリスの二重唱(もともと素晴らしい場面だが)から一段と深い感動を引き出した。互いに敵軍の将軍と国王の娘が結ばれると信じて付き合うことに始まり、権力と祈りで好きな男を手に入れられると思い込む王女と影の薄い父王、娘を犠牲にしても復権を狙う敵王などなど、あまりに人間的で悲しい錯覚の積み重ねが死に至るまでの発端は、表向き派手派手な第2場の凱旋の場の随所に仕掛けられている。ダニエル・バレンボイムは私に対し、「『アイーダ』はヴェルディ版の『トリスタンとイゾルデ』。愛と死の音楽なのだ」と語り、ミラノ・スカラ座のオーケストラに「シレンツィオ!(静かに)」の指示を出し続け、軋轢を生んだ。バッティストーニはイタリア人の生理に忠実でありながら、ふと立ち止まる、あるいは次なる音への予感を高めるかのように絶妙の「間(ま)」をつくり、死への接近をはっきりと示す。第2幕にここまでの陰影を与えた結果、第3〜4幕のドラマが自然に深まり、アイーダとラダメスの死後、祈り続ける聖女の人生を歩むであろうアムネリスの救済まで、一気に進む。


歌手ではラダメスの福井敬、アムネリスの清水華澄、アモナズロの今井俊輔、ランフィスの妻屋秀和が素晴らしい。福井は音大教授の30年選手だが、ここ2〜3年の輝きは群を抜いている。清水と今井はイタリア人に匹敵する。イタリアから招いたアイーダ、モニカ・ザネッティンは役にふさわしい容姿を持ち、サビのきいた声自体は魅力的なのだが、変なところがファルセットになったりして技巧の不足を露呈する。紋切り型の演技もあいまって、日本人歌手の完成度には及ばなかった。

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