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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

新国立劇場と王子ホール「フィガロ」、変革を〝せざるを得ない時代〟の音楽


左が新国立劇場、右が王子ホールのキャスト

まだコロナ禍の緊急事態宣言が解けない2021年2月の東京で、モーツァルトのオペラブッファ(喜歌劇)「フィガロの結婚」を2通りのプロダクションで観た。9日は新国立劇場の定番となったアンドレアス・ホモキ演出(2003年初演)4年ぶり6度目の再演、10日は銀座の王子ホールで、もはや「バリトン歌手」の枠を完全にはみ出したマルチタレントの宮本益光がアルマヴィーヴァ伯爵役から演出振付、日本語字幕の対訳まで丸抱えのプロデューサー職を引き受けた「モーツァルト・シンガーズ・ジャパン」のハイライト上演だった。


フランス革命が象徴するヨーロッパの大変革期、1784年のパリで初演されたボーマルシェの戯曲「狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚」は貴族でも農民でもない第3の新階級、富裕市民(ブルジョワジー)が台頭する時代の象徴としてたびたび、ルイ王朝から上演禁止の憂き目に遭った。これを原作とする台本作家ダ・ポンテ、作曲家モーツァルトのコラボレーションは複数の世代(フィガロとスザンナ=ヤングアダルト、アルマヴィーヴァとロジーナ=アダルト、ケルビーノとバルバリーナ=ヤング、バルトロとマルチェリーナ=シニア)それぞれのラヴ・コメディーの仮装で検閲のリスクをかわしつつ、ボーマルシェの時代精神を優美闊達な音楽によって、より多くの人々に伝えるアクロバットをやってのけた。



宮本が編んだハイライトのリスト

後の時代の観客に対しても大ざっぱに言って、1)独裁者への抵抗、2)結婚後の時間が経過すればするほど苦味を増す夫婦関係というシロモノーーの2点において、時代を超えた共感を呼ぶはずの傑作だ。2つのライヴの合間にエーリヒ・クライバー指揮ウィーン・フィル、1955年録音の名盤を聴き直すとフィガロのチェーザレ・シエピ、スザンナのヒルデ・ギューデンの最初のデュエットからして、大人のエロスが濃厚に漂う爛熟ぶりに驚嘆する。66年後の歌手たちは発声テクニックや18世紀音楽への様式感の進歩にもかかわらず、どこか幼い。その代わり、時代を切り裂く熱気を身体運動能力と才気で体当たりに再現する可能性は改善した。これを全身全霊で体現してみせたのは、宮本チームの方だった。プロフェッショナルな俳優の強みを発揮した長谷川のMCに乗り、キャリアの長短よりもキャラクターの適合性で選ばれたと思しき歌手、演技力豊かなダンサー、オペラを知り尽くした山口のピアノが有機的に噛み合い、休憩20分を除いて正味2時間のハイライトを飽きさせずに聴かせた。唯一の苦言である「絶叫過剰」(張り切る気持ちはわかります!)のなか、最もキャリアの豊かな澤畑が伯爵夫人ロジーナのアリア「美しき悦びの時はどこ」に与えた陰影の深さ、情感の豊かさは傑出していた。フィガロの加耒は熱演ながらハイバリトンなので、バスが歌うことも多い声域では苦心の跡がみえた。福岡出身のイケメン歌手としても知られるが、今日の舞台姿を見ていて同郷の俳優、瀬戸康史に似ていると思ったのは面白い発見だった。


もちろん新国立劇場の上演も悪くはなかったが、コメディーに欠かせない客席の爆笑、ダ・ポンテとモーツァルトが巧妙に仕掛けた猥雑な熱気、大人のラヴ・コメディーの軽やかな腐敗臭などの点で、2003年のプロダクション初演と「かなり違うものになってしまった」との思いを拭い去ることができなかった。初演は1997年の開場以来最初で最後の外国人オペラ芸術監督、ウィーン国立歌劇場出身のトーマス・ノヴォラツスキーの就任第1作だった。


段ボールを多用した幾何学的な舞台装置、白と黒の対比に階級対立を象徴した衣装、ドラマトゥルギー(作劇術)を克明に代弁する照明、ふとした仕草でよりエロティックな情景を想起させる…といった特色は18年後の今も「現役」であり、ホモキの卓越した手腕に改めて感心する。気の毒というか問題は、初演時点と現在の世界を取り巻く状況の桁外れの変化に起因する。今回の再演は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大の特殊状況を受け、合唱の人数を絞ったり、ソーシャルディスタンシング(社会的距離の設定)を考慮してアルテシェニカ(身体表現)を変えたりと余計な制約が加わり、指揮者やキャストの大幅な変更も余儀なくされた。沼尻は2007年の再演を担っているとはいえ、芸術監督を務める滋賀県立びわ湖ホールの「ローエングリン」(ワーグナー)の準備や各地のオーケストラへの客演で多忙を極める中での代役指揮で、オーケストラも東京フィルハーモニー交響楽団から東京交響楽団に替わっているため、なかなか大変そうだ。万全を期そうとするあまりか全部を克明に振り過ぎて、もっさりとし過ぎるか、猥雑さをそぐ場面があるのは残念だ。それでも第2幕、これも代役で伯爵夫人を歌う大隅が透明度の高い声、隈取りのはっきりした歌で加わって以降はみるみると精彩を増し、オーケストラの鳴りも良くなったので、オペラはつくづく、生き物だと思う。「トスカ」(プッチーニ)再演を終えてそのまま、フィガロ代役のために日本滞在を延長したウルグアイのバリトン、ソラーリはスカルピアよりフィガロで真価を発揮したと思う。若々しくカッコよく、日本人歌手との協調性も発揮した。伯爵のプリアンテともどもアンサンブルを尊重、急ごしらえの居心地悪さを極小化するのに貢献した。


興味深かったのは客席だ。他の3回はすべて午後2時開演の昼公演で9日だけが当初、午後6時30分開演の予定(緊急事態宣言を受けて8時に終わらせるため、4時30分開演に変更)だった。COVID-19との闘いが長期化するなか初台(新国立劇場の所在地)の主たる観客層の高齢者が夜公演を避け、ソーシャルディスタンシング配慮で席数を絞った昼公演に集中、9日の売れ行きは当初とても悪かったという。S席(今回22,000円)やA席(同16,500円)のエリアにも25歳以下5,000円の「U25」、39歳以下11,000円の「U39」のチケットを気前よく提供した結果、音大生でもクラシック音楽愛好者でもなく、例えば劇団四季が上演するミュージカル「オペラ座の怪人」が好きで、そこに挿入された「フィガロの結婚」のパロディーから〝ネタ元〟に興味を持ったような非(未)オペラファン、ファッションもごく普通に今風の若い男女が多数つめかけた。休憩時間のトイレに並ぶ若い女性たちの会話に記者の職業病で耳をはさむと「今日のフィガロ、超かっこいい」とか、なかなかヴィヴィッドな感想が聞こえてくる。彼らは耳も優れているのでカーテンコール時に出来の良かった歌手、それ程でもなかった歌手に対して「ブラヴォー自粛要請」のなか、拍手の音圧ではっきりと意思を表示した。クラシック音楽自体が衰退したのではない、「ギョーカイの常識」だった上演スタイルや他ジャンルのパフォーミングアーツに比べ割高な入場料、昭和教養主義の残滓である根拠ない優越感を振り回す方々が新規参入を阻んでいただけだと、激しく痛感した次第。革命あるいは変革の時代を象徴する作品本来のミッションは、COVID-19の出現によって「変わらざるを得ない」世界の現況において、また新たな生命を獲得したようである。

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