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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

文句なしに楽しかった新国立劇場「ドン・パスクワーレ」


新国立劇場に初めてかかるドニゼッティのオペラ・ブッファ(喜劇)「ドン・パスクワーレ」(1843年、パリで世界初演)5公演のうち、ちょうど真ん中に当たる2019年11月13日の昼公演を観た。ステファノ・ヴィツィオーリの演出は全くの新制作ではなく、トリエステ・ヴェルディ劇場をはじめイタリア各地で20数年来使われてきた名舞台に東京で手を入れたもの。先日の粟國淳演出の「トスカ」と同じく、「イタリア的」としか言いようのない淡彩を塗り重ね、照明を刻々と変化させる色彩の感覚が何よりも美しい。全体の約3分の2を作り直すために来日したロベルタ・グイディ・ディ・バーニョが考案した衣装も含め、「ドニゼッティの指示よりほんの少し前の時代、18世紀から19世紀へかけてのフランス第1帝政のスタイル」の「シンプルで品格のあるライン」(ヴィツィオーリの記したプロダクション・ノート=井内美香訳)、「魔法の箱」のような狭い空間を基調にした視覚は、観る者の関心を惹きつけてやまない。コッラード・ロヴァーリスの指揮は東京フィルハーモニー交響楽団からドニゼッティにふさわしい温かく、柔らかな響きを引き出すとともに、プッチーニ以降の感情過多(あるいは爆発)を慎重に控え、声主導のベルカント・オペラの則を越えない確かな様式感を示した。


この素敵な舞台ヴィジュアル、音の絨毯(ギターには村治奏一、土橋庸人の名がクレジットされている)に乗った歌手たちの演技、歌唱、アンサンブルにも隙がない。題名役のロベルト・スカンディウッツィ(バス)は68歳となり、かなり重い役もこなしているのに、ドニゼッティでの軽妙さ、アジリタ(装飾音型)の切れ味も健在。何より「偏屈だけど寛大」なキャラクターに無数の声色で命を吹き込み、実在感のある人物像を描き切った。韜晦なマラテスタを超絶技巧のアジリタで〝語り〟尽くしたバリトンのピアジオ・ピッツーティ。ノリーナのアルメニア人ソプラノ、ハスミック・トロシャンはドゥ・ニースの代役ながら多分ずうっとコンディションが良好で、気丈なようでいて愛と真心に富むノリーナを精彩豊かに演じた。コロラトゥーラのムラのない発声にも、聴き惚れた。合唱団員兼の小さな役ながら、外国人ゲスト歌手の中で美声を光らせ、確かな存在感を発揮した千葉裕一(バリトン)も素晴らしい。やや問題を感じたのはエルネスト役のロシア人テノール、マキシム・ミロノフ。非常に洗練されたベルカント様式を身につけ、発声に文句のつけようはない。ただエルネストというキャラクターのせいもあるのだろうが、スカンディウッツィとピッツェーティの強烈な存在にはさまれると、押し出しの弱さを感じてしまう。まあ、贅沢な不満ではある。


「La morale in tutto questo(老いて妻をもらうなんて苦労するだけ)」(小畑恒夫執筆の作品ノートより)の教訓を最後のロンドで皆が歌い、あっさり着地する幕切れ。「客席の高齢化が進むなか、老人蔑視のオペラだから上演頻度が低下しているのではないか」と指摘した音楽評論家がいたが、還暦過ぎの自分は、そうとも思わない。18世紀のモーツァルトの「ふとした哀しみ」「ジョークで終わるドラマ(ドラマ・ジョコーゾ)」の伝統を色濃く受け継いだドニゼッティが作ったブッファなのだから、ほんの少しの(エッ、足りませんか?)自戒の念をこめて、軽く受け流せばいいのではないか? 声主導のベルカント・オペラだからこそ、「潤色」の役目を担う管弦楽に機知と才気の限りをこめ、巧みにドラマを盛り上げる音の筆致に注意深く耳を傾けるとき、「教訓」の持つ意味が、ドニゼッティの時代のドラマトゥルギー(作劇術)とともに、はっきりと理解できるはずだ。

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