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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

指揮の職人芸は「人間国宝」だ!デュトワの奇跡、大阪フィルと新日本フィルで


大阪で5月31日、東京で6月14日に聴いた

大阪フィルハーモニー交響楽団第558回定期演奏会(2日目=2022年5月31日、大阪フェスティバルホール)

指揮=シャルル・デュトワ、ピアノ=北村朋幹※、コンサートマスター=須山暢大

ハイドン「交響曲第104番《ロンドン》」、ラヴェル「組曲《クープランの墓》」、ストラヴィンスキー「バレエ音楽《ペトルーシュカ》」※


新日本フィルハーモニー交響楽団創立50周年記念特別演奏会(6月14日、すみだトリフォニーホール)

指揮=シャルル・デュトワ、チェロ=上野通明※、コンサートマスター=崔文洙

バーバー「弦楽のためのアダージョ」、ショスタコーヴィチ「チェロ協奏曲第1番」※、ソリスト・アンコール:カタルーニャ民謡(カザルス編曲)「鳥の歌」、チャイコフスキー「交響曲第5番」


夏のセイジ・オザワ・フェスティバル松本2022でサイトウ・キネン・オーケストラを指揮するのに先立ち、5月22日に来日直前のデュトワをカナダの自宅と結び、テレワークの共同インタビューに参加した。1936年ローザンヌ生まれのフランス系スイス人。早くから指揮を志すも裕福な家庭の出身ではなく、苦学に苦学を重ねながら複数の楽器を修め、各地の指揮講習会に奨学金を取って参加した。「スイスではジュネーヴのスイス・ロマンド管弦楽団の創立指揮者、エルネスト・アンセルメから多くを学びました。『指揮は教えてできるものではない』が持論で、教授職には就きませんでしたが、ロマンド管のリハーサルに出入りするのを許可し、質問すれば何でも答えました。時には話の続きをするため、自宅にも招いてくださったのです。ボストン交響楽団の指揮セミナーに2年続けて参加した時は、ピエール・モントゥーの演奏から多くを学びました。モントゥーは《春の祭典》(ストラヴィンスキー)の世界初演者、アンセルメは現在最も一般的な校訂版の初演者です」と振り返った。


私はこれまで何度かデュトワのリハーサルに立ち会い、プレイボーイ風の外向きイメージとは全く異なる「指揮の職人芸」のストイシズムに目をみはり続けてきた。共同インタビューでは各地のオーケストラでフランス音楽を再現する際の要諦、日本のオーケストラの特徴などについての質問も出たが、デュトワは楽団ごとの違いにはあまり興味を示さず「それぞれの作品に必要な音の出し方、音色、サウンドを根気よく引き出すだけだ」との主張を繰り返した。かつて札幌の国際教育音楽祭、パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)の音楽監督に就いた時も「レセプションとか大通公園のセレモニーとか、余計なイベントが多過ぎる。せっかく世界の優秀な音楽学生が札幌に集まっているのだから1分でも長くリハーサルに時間を割き、それぞれの作品に必要な響きをたたき込まなければならない」と主張して、PMFを地域振興の手段、NHK交響楽団と関係の深い指揮者を招けばメディア露出も増えると期待した行政関係者を慌てさせた。最後は疲労のあまり、ソファーにへたり込んでいた。同じような光景は、宮崎国際音楽祭の監督を引き受けた際にも目撃した。


楽譜の隅々まで把握、厳格なリハーサルを繰り返して響きを極め、年齢を感じさせない弾力性を伴う無駄のない指揮。2021年の松本、デュトワ指揮の無観客演奏会に参加したサイトウ・キネン・オーケストラのヴィオラ奏者、川本嘉子は「あれほどまでスコアを深く読み込み、すべてのパートに通じた指揮者は小澤征爾さん、デュトワさんくらいしか残っていないのではないかと思いました」と指摘する。人間国宝(重要無形文化財)に値する職人芸だ。


創立指揮者である朝比奈隆のロシア&ドイツ音楽への傾倒を反映し、ダークで重量級のサウンドをデフォルトとしてきた大阪フィル。2018年に尾高忠明が音楽監督に就任して以降、より多様なスタイルの音楽に対応する柔軟性を獲得してきたなか、デュトワ3年ぶりの定期登場は前回以上の成果を上げた。ハイドンこそ「音色&アンサンブル訓練マニュアル」的な教育効果にとどまっていたけれども、《クープランの墓》の繊細極まりない音色美に腰を抜かし、《ペトルーシュカ》の光彩隔離とした音響とドラマトゥルギーの妙に唖然とした。


音楽監督交代の過渡期でもあり、現時点のアンサンブル能力が大阪フィルより劣ると思われる新日本フィルでも、デュトワの基本アプローチは変わらない。確かに管楽器群は精一杯の熱演、弦楽器群の厚みは大阪フィルに一歩譲るものの、ここ最近の新日本フィルでは破格の名演奏を実現した。今さらながらの話で鼻白みもするのだが、新日本フィルは1972年の「日本フィル事件」(当時のスポンサーだった文化放送&フジテレビが財団を解散、弦楽器中心で組合派の日本フィルと、管楽器中心の非組合派で小澤が与した新日本フィルに楽団が分裂した)以来、弦セクション、とりわけチェロからコントラバスにかけての低弦群が弱いとされてきた。だが、チャイコフスキー「第5」におけるデュトワの注意は絶えず低弦群に注がれ、新日本フィルとは思えない(失礼!)ほど豊かな響きを現出させていたのだ。一瞬たりともアンサンブルの綻びが出ないよう、オーケストラだけでなく高齢の自らもギリギリの地点まで追い込み、とことん凄絶なチャイコフスキーを描ききったスゴ腕に息を呑んだ。


バーバーがアメリカ合衆国、ショスタコーヴィチがソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)と冷戦時代の世界の縮図を描き、上野のアンコールの「鳥の歌」は編曲者パブロ・カザルス自身が冷戦真っ盛りの1971年にニューヨークの国連会議場で「ピース、ピース!」と呟きながら弾いた作品。前半のテーマは明らかに「祈り」であり、上野の魂の深淵をたぐるかのようなショスタコーヴィチの解釈は深い感動を誘った。ケネディ大統領追悼式に奏でられたバーバーでの清澄な響きはデュトワの新境地なのか、ウクライナ情勢を背景にした芸術家の嘆きなのか、とにかく感動的に響いた。「合わせ物名人」の手腕も健在以上の深化をみせ、デュトワは真摯で柔軟な上野の音楽性を存分に引き出しつつ、作曲家の「複雑系」の心理を巧みな音色の変化とともに伝え、見事だった。そろそろ、N響に復帰しても良いのでは?



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