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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

感動の起点は共感、と当たり前のことを考えた。都響、ニューシティ、悠治など

更新日:2021年1月25日


今週末はいささか雑食系だったかもしれないが、不思議なことに、たった1つのテーマだけにこだわり、4つのライヴに接する自分がいた。


1)第64回日本赤十字社献血チャリティ・コンサート(1月23日、サントリーホール)

原田慶太楼指揮東京都交響楽団

ビゼー「組曲《カルメン》より《闘牛士》《ハバネラ》《ジプシーの踊り》」

ロドリーゴ《アランフェス協奏曲》(ギター独奏=村治佳織)

ソリスト・アンコール:イエペス《禁じられた遊び》(愛のロマンス)

ドヴォルザーク「交響曲第9番《新世界より》」

アンコール:ロッシーニ「歌劇《ウィリアム・テル》序曲から《スイス軍の行進》」


2)がーまるちょば(パントマイム)「LIVE 2021 STORIES《PLEASE PLEASE MINE》

(1月23日、紀伊國屋サザンシアター)


3)東京ニューシティ管弦楽団第136回定期演奏会(指揮=飯森範親、1月24日、東京芸術劇場コンサートホール)

キラール「《オラヴァ》〜弦楽オーケストラのための〜」

ブラームス「ピアノ協奏曲第1番」(独奏=三原未紗子)

ストラヴィンスキー「バレエ音楽《ペトルーシュカ》」(1947年版)


4)高橋悠治作品演奏会Ⅲ「フォノジェーヌ」(指揮=杉山洋一、1月24日、東京文化会館小ホール)

高橋悠治《ル・ドゥーブル・ドゥ・パガニーニ》(1986)、《橋Ⅲ》(1968=世界初演)、《ガンダルヴァ》(1994)、《橋Ⅱ》(1965)、《フォヌルループ》(2019=世界初演)、《白鳥が池をすてるように》(1995)、《フォノジェーヌ》(1962)


2つのオーケストラ。都響は押しも押されぬメジャー、ニューシティ管は新興だが、演奏会の感動は外構スペック(数値データ)や先入観とは別のところから生成されると痛感した。


赤十字チャリティはソニー音楽財団主催、現在のスポンサーはミキモトグループだ。都響は共催に名を連ねるが、実質は「売り公演」(外部主催)の位置付け。リハーサル時間は4コマ合計3時間しかない。原田の「都響デビュー」には違いなく、リハでは反応を見極めることに専念し、本番で「自分の世界にどんどん引っ張っていった」という。曲を完全に手中へ収めた村治の好演もあって前半は堅調に進んだが、後半の《新世界》はスリルに富んでいた。原田指揮の同曲は昨年11月20日、東京芸術劇場でNHK交響楽団との共演(コンサートマスター篠崎史紀との初顔合わせ、それ以前は一貫して伊藤亮太郎)を聴いたばかり。隅々まで彫り込んだN響ヴァージョンに対し、都響では「一か八か」の即興性にかけた(かけるしかなかった)感じ。金管・木管は両オケ互角だが、弦の厚みや音色では都響コンマス山本友重の献身的リードにもかかわらず、マロ(篠崎)のN響に一日の長があった。原因は、原田の「very American(とてもアメリカ的)」アプローチに戸惑った楽員が少なからず存在したことかと思われる。アメリカンでも首席客演指揮者のアラン・ギルバートとはうまく機能するので、やはりリハーサル時間の不足が災いしたのではないか? 救いはお客様のノリの良さで《スイス軍の行進》で指揮者が客席に手拍子(ほとんど《ラデツキー行進曲》の世界!)を促すと、バンバン盛り上がった。好き嫌いが半ばするのは世の常で仕方ないとしても、コロナ禍の中で急激に頭角を現し、はっきりと成果を示してきた原田は明らかに「希望の担い手(Hoffnunsträger)」なのだから、都響にはもっと積極的な対応がほしかった。


これに対し、ニューシティ管は現在顧問、今年4月にミュージックアドヴァイザー、さらに1年後の音楽監督への就任が内定している飯森が、渾身の力で全員を駆り立て「これまでの在京オケにない響き」をはっきりと目指し、実現していて見事だった。私はプログラムの楽曲解説を執筆する機会の多い楽団で、今回のキラールに関しても若いライブラリアン(武居康大さん)がスコアのコピーを早々と送ってきて関連サイトの情報提供も適確。本番に向けての気合いを感じた。ただ《オラヴァ》の終わりに指定された楽員の〝雄叫び〟だけは、弦楽器奏者全員がマスク着用だったので音圧が出せず残念! ブラームスを独奏した三原は《ペトルーシュカ》のピアノパートも引き受けて大活躍ながら、演奏家心理とは、一筋縄にいかない。協奏曲では懸命の力奏ながら、大編成の管弦楽と渡り合うには音圧の限界を感じさせた。最強音がピークアウトしてしまい、音色が単調になる。ところが《ペトルーシュカ》では大任を果たした後の安堵感からか、煌めく音色美がしかと聴こえてきた。協奏曲の第2楽章にきちんと室内楽的味わいを与えた音楽性といい、なかなか優れたピアニストだ。《ペトルーシュカ》では近現代音楽に冴えを発揮する飯森、若い奏者の多い楽団のポテンシャルが全開、フルートのゲスト首席(正式入団予定)の荒川洋をはじめ、管楽器の名演もふんだんに楽しめた。指揮者と奏者全員の気持ちが一致した演奏会、というのは気持ちいい。


イタリア在住の指揮者で作曲家、杉山洋一が少年時代からの「高橋悠治〝愛〟」をぶちまけたシリーズの実質最終回。悠治自身、「杉山洋一が拾い集めてきた1962年から2019年までの作品は、初演以来忘れられていた作品だけでなく、書いたことも忘れていたのに、思いがけない場所に保管されていた草稿まで含まれている。ほとんど他人のしごとを見ているような気がする」とプログラムに記したレアな曲目に、若手奏者が新しい輝きを与えた。欧米の先端に接近した若き日々、政治的理由も伴ってそれに背を向けた時代、すべて統合された現在…と創作スタンスの変遷はあるにせよ、一貫して〝乾いた〟音楽を書いてきた悠治の世界が一層の解像度を伴って新世代の演奏家によって再現され、聴く側も濃密な音楽の時間に没入できたのは幸せだった。ここにも強い共感が存在して、感動の原点なのだと再認識した。


現在の所属事務所はクラシックの演奏家も手がけるという理由だけでご案内が来た、パントマイムのソロ・パフォーマンス。実は21年前の世紀転換年、東京都が後援した様々の記念イベントの成果評価の仕事を委嘱されたことがあって、条件が「普段の専門分野とは違うジャンルの公演を観客目線で」だった。密室劇からダンスまで刺激的な公演を次々に観た中、妙に強い印象を受けたのがパントマイムだった。「がーまるちょば」の存在は知らず、第一印象を大事にするため、公演前のインターネット検索も封じたが、なかなか面白かった。前半75分が寸劇5本のアンソロジー、後半45分が創作劇《A RING》。前半では、かつて勤務先の主催公演でご縁をいただいたイッセー尾形の寸劇アンソロジーを思い出したが、セリフの有無を棚上げにしても、アルテシェニカ(身体表現)が尾形に及ばず、意味というか話の伝わらない瞬間が時々あるのは惜しかった。半面、《A RING》でみせた冴えない男の喜怒哀楽の深淵では、パントマイムの美点をはっきりと感じた。コロナ禍で夜公演の一部を中止しても2021年の成果を問い、全身全霊で客席と向き合うパフォーマー、その献身を真摯に受け止め最大限の笑いと拍手で応える客席。ここにも、確かな共感からくる感動があった。

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