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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

嵐とパストラーレ。パリ管の選曲の妙


kajimotoが会場で販売している公演プログラムに掲載された拙稿

初日の札幌で足の先を骨折したというパリ管弦楽団(パリ管)音楽監督ダニエル・ハーディングだが、車椅子さばきすら颯爽としていて、ひと安心。何より、知的に組み上げられたプログラミングに感心した。なぜベルリオーズの長大なオペラ「トロイ人」から「王の狩と嵐」だけを抜き出してベートーヴェン2曲〜イザベル・ファウスト独奏の「ヴァイオリン協奏曲」と「交響曲第6番《田園》」〜の前に置いたかの意図は、アンコールに同じ作曲家の「コリオラン序曲」を奏で、より鮮明になった(2018年12月17日、サントリーホール)。


協奏曲が最大限に体現する穏やかな感情の光景こそ、「パストラーレ」そのものだが、それを標題にした交響曲には強烈な嵐の場面が訪れる。人生いろいろ。花もあれば嵐もある、とのテーマ性を明快に持たせたプログラミングだ。ベルリオーズはベートーヴェンの交響曲に大きな影響を受け、指揮者としての中心レパートリーに据える一方、作曲家としては直系の後継者を自認、「田園」の大きな振幅を自身の出世作「幻想交響曲」へと巧みに取り込んで発展させた。フランコ=アルマーニュ(仏=独)関係は歴史的にも非常に複雑だが、文化の蜜月関係の最たるものがベートーヴェンからベルリオーズへの交響楽史の継承であることをはっきり示す、秀逸な選曲。古代ローマの詩人ウェルギリウスに想を得た「トロイ」で始め、同じく古代ローマの英雄コリオラヌスにちなむ「コリオラン」で締めたのも憎い。


パリ管は「田園」に独特の香り、色彩感を与える。かつてラファエル・クーベリックがドイッチェ・グラモフォンに9つの異なるオーケストラと「ベートーヴェン交響曲全集」を録音したとき、「田園」はパリ管の担当だったのを思い出す。ハーディング指揮では、第1楽章こそ音のエッジの甘さが気になったものの、第2楽章の美しさ、「幻想交響曲」の「野の情景」の原点として表現された第3楽章の解像度、第4楽章の「アルカイックスマイル」を想起させる温和な表情はそれぞれ、パリ管との組み合わせでしか得られない味わいに思えた。


協奏曲でのファウスト。こんなに夢見心地で、時には鋭い斬り込みもみせながら、隅々まで曲の素晴らしさに酔わせてくれた演奏に接したら、何も言うことはない。譜面を立て、最後の瞬間まで新しい発見と即興に賭ける姿勢にも共感する。


今から20年ほど前、某日本人ヴァイオリニストがブラームスのソナタ全曲で「デビュー✖️✖️周年記念リサイタル」を開いた折、終演後のレセプションで元駐米大使の偉そうな方が「キミ、譜面台を立てて本番に臨むなんて、お客様に失礼だよ。記念リサイタルならなおさら、暗譜でやりなさい」と場違いの説教を本人にしていた。たまりかねた私が「ギドン・クレーメルも最近は『もちろん全て暗譜している。でも、ふと見た瞬間の発見とか惜しくて、最近は協奏曲でも譜面を置く。暗譜は19世紀末、ヴィルトゥオーゾの技巧競争が行き着くところまで行った末、記憶力まで競うようになった悪しき時代の産物。言ってみれば、ショウビジネスの発想だよ』と私にも打ち明け、譜面を立てていますよ」と助け舟を出すと、元駐米大使は「キミは黙っていなさい」とご立腹だった。このところ、勘違い系のエライ人が減ってきたのは幸いで、ファウストの譜面台つき協奏曲演奏に異議を唱える人もいなかった。


ニ長調の「ヴァイオリン協奏曲」からいきなりへ長調の「田園」に向かうのが「平和過ぎる」とでも思ったのか、ファウストがアンコールに選んだのはハンガリー出身の作曲界の長老、ジェルジ・クルタークの「無伴奏ヴァイオリンのためのサイン、ゲーム、メッセージ〜ジョン・ケージへのオマージュ」の一部。これがまたパストラーレ、人生の嵐の両極を往来する演奏会全体に強烈なアクセントを与えた。


ファウスト、ハーディングとも1990年代の日本デビューから聴き続けているので、最近の進境には本当、眼を瞠る。彼らの考え方の一端は、会場販売の公演プログラムに書かせていただいた。






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