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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

宮田大と田村響のベートーヴェンに感謝


2020年2月26日昼過ぎ、首相の唐突な自粛要請でコンサートやオペラが続々と公演中止や無観客上演に追い込まれた。現場取材やインタビューをもとに文章を書くフリーランス音楽ジャーナリスト、個人事業主の私の仕事も次々にキャンセルされたが、「補償の範囲外」という。ほとんど引きこもりの境遇で聴き続けたのは、ベートーヴェンだ。昨年11月に取材したコンスタンチン・リフシッツのインタビュー記事の締切がメール授受の不手際で伝わらず、3月に入って「実は2月15日でした」との衝撃! 直前に届いた試聴用CD-R、リフシッツが香港で収録したベートーヴェン「ピアノ・ソナタ全集(第1ー32番)」がナクソス・ジャパンから届いたので何度も繰り返して聴きながら、必死に原稿を仕上げた。前後して、入手の遅れていたブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団の「交響曲全集(第1ー9番)」最新リマスタリングのSACDボックスが届き、一気に聴いた。高校生だった1975年に米CBSの廉価盤レーベル「オデッセイ」の輸入LP盤ボックスで購入したのと同一音源、私にとっては生まれて初めてのベートーヴェン全集という思い出の名盤である。


楽譜研究の進展やピリオド(作曲当時の仕様の)楽器&奏法の援用などを通じ、ベートーヴェンの再現手法は過去半世紀、大きな変貌を遂げた。リフシッツのテンポ設定、打鍵と減衰のタイミングには、より古い時代の鍵盤楽器の痕跡が明らかで、ワルターと同じころ聴いたエミール・ギレリスやクラウディオ・アラウらの演奏スタイルとはかなり違う。半面、ワルターのリズム感(上から下に「たたく」と下から上へ「はねる」の使い分けが見事!)、アーティキュレーション、フレージングは極めてナレーティヴ(語りかけ豊か)に発想され、続く世代のヘルベルト・フォン・カラヤンやレナード・バーンスタインらの全音均等系ゴージャス・サウンドよりはピリオド派のニコラウス・アーノンクールに近いのが興味深い。アーノンクールも「私の使命は第二次世界大戦で分断されてしまった『語りとしての音楽=修辞法』の復活にあった」と著書、インタビューなどで繰り返し語った。


2020年3月3日、浜離宮朝日ホールで奇跡的に開催された「宮田大&田村響『ベートーヴェン:チェロ・ソナタ』全曲演奏会」第2回もまさに若手ならではのフレッシュな感覚、「アーノンクール以後(ポスト)」の世代が自然に身につけた様式の洗練の両面を見事に兼ね備えていた。冒頭の変奏曲2つ〜「ヘンデル《ユダ・マカベウス》の《見よ、勇者は帰る》の主題による12の変奏曲」「モーツァルト《魔笛》の《娘か女か》の主題による12の変奏曲」は両者の普段の演奏能力に比し、いささか慎重運転だったように思えた。原因として推測したのは1)「満席」のはずが幾分か空席が目立ち、ほぼ全員がマスク着用の異様な客席に対し、どういうテンションで向き合えばよいのかを測りあぐねた、2)短い〝尺〟の中で12もの変奏のキャラクターを描き分ける〝芸〟の鍛錬がまだ足りないーーの2点。案の定、3曲目の「チェロ・ソナタ第1番」に入ると客席の雰囲気も温まり、舞台上の2人との一体感が増す一方、構えの大きなソナタに正面から挑む力感がはっきりと確認できた。とりわけ、第2楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの生気と熱気に満ちた音楽が客席を沸かせた。


後半は全5曲中で最も人気の高い名曲「チェロ・ソナタ第3番」の一本勝負。これも1963年の第1回レコード・アカデミー賞(音楽之友社)を受賞したムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)、スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)の歴史的名盤と高校生時代に出会い、最も感銘を受けたベートーヴェン作品の1つである。旧ソ連を代表した巨匠2人の横綱相撲を通じ「雄渾壮大な作品」の固定観念を刷り込まれてしまった耳には当初、昨夜の2人の演奏が「優し過ぎる」ように思えた。だが待て! ベートーヴェンがこの曲を完成したのは1808年、38歳だ。ともに1986年生まれで今年34歳になる宮田、田村と大した違いはない。「交響曲第5&6番(運命&田園)」「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」などの傑作を次々と創作、新鮮なアイデアが泉のように湧き出した青年作曲家の気概やフレッシュな感触といった原点に立ち返ったとき、まだ「おじさん」加齢臭のない2人の演奏はかなり、的を射たものだったのではなかろうか? とにかく随所に瑞々しい感覚を漂わせ、宮田はソロで飛び出す場面でも気品を失わず、オブリガートに回っても明瞭に旋律線をキープする。田村はフレーズの冒頭での明確なアクセントの打ち方をはじめ、明らかにベートーヴェン時代の楽器の構造、楽譜に書かれていない部分の情報を究めていて粒のそろった美しいタッチ、キラキラ輝く音色で楽曲の色彩感を最大限に引き出す。スタインウェイのフルコンサートグランドの蓋を全開にしながら、チェロを一切マスクしない音量のコントロールも秀逸だった。


アンコールには「変奏曲つながり」(宮田)でラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」から最も有名な第18変奏をチェロ&ピアノ編曲版で奏でた。本編のベートーヴェンからアンコールに至るまで2人の音楽に対する真摯な姿勢、優れた演奏能力、客席の人々の「今」を思いやる優しさなどが満ち溢れ、心にしみる演奏会となった。

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