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台湾と日本の間で揺れ動いたアイデンティティー〜湯徳章の足跡を発掘する

  • 執筆者の写真: 池田卓夫 Takuo Ikeda
    池田卓夫 Takuo Ikeda
  • 6 日前
  • 読了時間: 6分

更新日:5 日前

〜映画「湯徳章ー私は誰なのかー」の黄銘正&連楨惠の2氏とのインタヴューを交えて〜


東京・渋谷のユーロスペースで取材に応じる黄(左)、連(右)の両監督
東京・渋谷のユーロスペースで取材に応じる黄(左)、連(右)の両監督

2025年12月初め、10数年ぶりに台北を訪れた私が半日以上かけて市内中心部を散策したある日、「二二八和平公園」を抜けホテルへ戻ろうとすると、65歳以上入場無料の「台北二二八紀念館」が現れた。何かに引き寄せられるような気持ちで、展示室へ足を踏み入れた。修学旅行の日本人高校生も団体で訪れていたから「きっと有名な施設なのだろう」くらいの好奇心である。ところが日本統治時代には台湾放送協会の演奏スタジオだったという建物は1947年2月27日、蜂起した民衆が占拠し台湾全島に向けて決起を呼びかけた〝現場〟だった。事件50周年の1997年2月28日、全面的な改修と増築を経て、記念館として開館した。


蜂起は南京にいた蒋介石が派遣した軍隊の徹底した弾圧で治ったが、1949年から38年間も続く戒厳令をもたらした。「反乱首謀者」の濡れ衣を着せられ、公開処刑された犠牲者の展示の中に「日本で司法試験に合格した弁護士」の写真があった。今回、2024年制作の台湾映画「湯徳章ー私は誰なのかー」(©️角子影音製作有限公司)の試写を観て、それが日本人の父と台湾人の母の間に生まれた湯徳章(トゥン・テッチョン)だったのだと理解した。




弁護士事務所での湯徳章
弁護士事務所での湯徳章

湯徳章は1907年(明治40年)1月6日、日本統治時代の台湾府で日本人の警察官(新居徳蔵)と現地女性の間に生まれた。当時は正式に認められていなかった婚姻関係だった。父は15年、民衆の襲撃事件に巻き込まれて死亡。徳章は26年に巡査試験に合格、一時は亡父と同じ警察官の道を歩み、30年に結婚した。35年には叔父の坂井又蔵の養子となり、坂井徳章を名乗る。38年には姉の5番目の息子、聰模(ツォンボ)を養子に迎えた。39年に公職を退いて日本へ渡って中央大学や日本大学で学び、41年、司法試験に合格。43年に台湾へ戻り、台南州登録弁護士を申請、台南市内に「坂井徳章弁護士事務所」を開いた。45年に叔父との養子縁組を解消して「湯」姓に戻り、日本統治の終了後、台南市南区区公所初代区長を経て台湾省参議院議員、台南市人権保障委員会主任委員などを務め、47年には「二二八事件処理委員会台南市分会治安組長」へと推された。湯徳章は身を挺して混乱の収拾に尽力して多くの市民の命を守ったが、蒋介石の軍に逮捕されて拷問を受け、街中を引き回された上で台南市中心部の民生緑園(現・湯徳章記念公園)で公開処刑された。享年40歳。映画の再現部分では自身も映画監督、俳優を兼ねる鄭有傑(チェン・ユウチェー)が徳章役を演じた。


なぜ今、湯徳章なのか?映画「湯徳章ー私は誰なのかー」を共同で監督した黄銘正(ホァン・ミンチェン)、連楨惠(リェン・チェンフィ)の両氏が日本公開に先立って来日した機会をとらえ、話を聞いた(2026年1月21日、東京・渋谷のユーロスペースで)


台南市の湯徳章記念公園
台南市の湯徳章記念公園

ーー「湯徳章」とはどのようにして〝出会い〟ましたか?

「私は2025年に台湾生まれの日本人(湾生)の帰郷を題材にした映画『湾生回家』(2016年大阪アジア映画祭のオープニング作品に選ばれ、観客賞を受けた)を監督して以来、日台の関係を題材にした作品を『もう1本撮りたい』と願ってきました。コマーシャル映像の撮影で台南市を訪れた際、街の中心にある公園でこの人物(湯徳章)の銅像と出くわしたのが始まりです。その時は『二二八事件の犠牲者』くらいにしか思わなかったのですが、後に調べると父が日本人警察官、母が現地人のハーフとして生まれ、父は日本の侵略に抗議する市民の暴動で2人の台湾人の同僚とともに殉死していたことがわかって俄然、興味がわきました。社会が混乱する中で日本人と台湾人の間を揺れ動き、自身のアイデンティティーに苦悶する姿は時代こそ異なるものの、今の時代の台湾人と重なります」


ーー確かに台湾は今も中国本土との間に複雑な問題を抱えていますが、アイデンティティーの問題とは、具体的にどのようなものを指すのですか?

「まあ、細かいことを気にし始めると居心地が悪くなるので、それ(アイデンティティーや中国との関係)を考えないようにしている人も多いです(笑)アイデンティティーは複雑な問題で歴史的要因や解釈にも左右されますが、私たちの世代が学校で受けた教育の大半が古代以来の中国史であり、台湾についての記述は1ページにも満たず、歴史の授業には興味が持てませんでした。戒厳令が施行されていた38年間、台湾のことを語り、独立を主張する者は国家転覆罪に問われ死刑が宣告されました。台湾に言論の自由が復活するには、1992年の法改正を待たなければならなかったのです。中国の基本姿勢は昔も今も、台湾人国家の台湾ではなく〝1つの省〟だと思います。遡れば日本統治時代以前も清国やオランダが台湾を支配していました。こうしたすべてが、アイデンティティーを複雑にしています」


ーー映画の製作を通じ、二二八事件にも改めて目を向けました。

「事件から来年で80年ですが、正直、私は何も知りませんでした。調べてみると、結構恐ろしい事件です、先ず湯徳章の処刑が32年前に実父が殺された状況と酷似、死者数すら正確に把握されていません。湯の場合、他の弁護士らとともに逮捕投獄され、形だけの裁判を経て公開処刑された事実が存在します。しかし理由のないまま行方不明になったり、刑事裁判を経ずして殺されたりした人も少なからずいて、実際の犠牲者数はおそらく2万〜3万人に達するはずです。事件収束後、国民政府は『裏社会あるいは共産党、日本支配者の残党の3つの勢力によって引き起こされたのであって、台湾人は悪くない』との言い訳を主張しました。ハーフだった湯は日本の残党とされ、見せしめのために殺されました。台湾人犠牲者に知識人、政治思想のはっきりした人、メディア関係者が多かったのも意味深長です」


湯の養子、聰模さん(左)
湯の養子、聰模さん(左)

ーー連さんとの役割分担を教えてください。

「連さんとは長年のコラボレーションの関係にあります。大体は私が監督、彼女がプロデューサー。本作でも最初はそのように考えていましたが、日本統治時代の資料などを読み解くには、日本語に堪能な彼女の力が必要です。さらにドキュメンタリー映画である以上、〝素材〟には実在の人物が登場します。養子の聰模さんをはじめとして、最初は頑なに心を閉ざしている人もいました。連さんには誰ともすぐに親しくなれる特別な能力があり、インタヴュー場面の多い映画だけに、共同で監督する方が良いだろうということになりました。


ーー映画の完成を待たず、2023年に亡くなった聰模さんは特に印象的です。

「この作品の中で、最も重要な人物です。とても〝とっつきにくい〟方で、最初は『何も語りたくない』の一点張りです。ものすごく時間をかけて心の扉を開いてくださるように努め、寄り添うように話を聞き出しました」

「できるだけ早く見つけて話を聞こうとしたのですが、色々な角度からアプローチしても全部NO!でした。3〜4年はかかりましたけど、最後にちゃんと話が聞けて良かったです」


ーー親族の貴重な証言も得られ、映画の価値が高まりましたね。ありがとうございました。


※映画は2026年2月28日からユーロスペースほかで全国順次公開の予定。

公式サイト: https://thngtek-chiong.com/

配給・写真提供=太秦 info@uzumasa-film.com


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