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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

レネス&都響プロコフィエフと道義&読響ショスタコーヴィチでロシア音楽考察


各楽団の定期演奏会も安定を取り戻しつつある

20世紀は近代兵器の投入で大量殺戮が可能となり、2度の世界大戦を通じ、芸術に携わる人々の世界観や死生観を大きく変えた。ロシアは社会主義体制の誕生で創作にもリアリズムが重視され、前衛は激しく糾弾された。ストラヴィンスキーは西欧から米国へ渡り、最初は類似の経路をたどったプロコフィエフはソ連に復帰、ショスタコーヴィチはソ連にとどまり体制との際どいせめぎ合いを続けた。3者に共通するのはカメレオンのように変転した作風だろう。社会主義が挫折し、東西冷戦が終結して30年を経た今、旧ソ連を知る時代の作曲家群を再現解釈する可能性はいよいよ、「何でもあり」の様相を呈してきたように思う。


東京都交響楽団第935回定期演奏会(2021年9月27日、東京文化会館大ホール。コンサートマスター=矢部達哉)は1970年生まれのマルタ系オランダ人、ローレンス・レネスがワーグナーの「歌劇《さまよえるオランダ人》序曲」に続き、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」(独奏=松田華音)と「交響曲第5番」を指揮した。2018年9月、2か月前に急逝したオリヴァー・ナッセンの代役を務めて以来、3年ぶりの都響との共演だ。ジョン・アダムズの「厚い信頼を得て」、同時代音楽の解釈に定評があるという。スリムな長身で年より若く見え、シャープな棒さばきが目を引く。ワーグナーでは余りに豪速球型、〝ため〟の少ないアプローチに、物足りなさを覚えた。一方、徹底的にモダニズムの音楽として処理したプロコフィエフでは都響の卓越したメカニック、豊かな表現のポテンシャルをフルに引き出し、白熱した演奏を繰り広げた。


長くロシアに学んだ松田のピアノは技術上の課題を難なくクリアしたにとどまらず、プロコフィエフのスコアにこめたロシアの音楽伝統、民話、約2か月間の日本滞在で耳にしたメロディーの痕跡なども丁寧にすくい上げ、一貫したストーリーを描き出した。アンコールのラフマニノフ「《楽興の時》第6番」に漂うダークな情感にも耳を惹きつけられた。交響曲では一段と豊かな色彩感と艶が放たれた半面、第2次世界大戦中の1944年に作曲、1945年の終戦間際のモスクワでプロコフィエフ自身が初演した作品に大きく影を落としているはずの近代戦やファシズムの残虐性があまり意識されず、ひたすらスポーティなサウンドにまとめ上げられた点に、いささかの違和感を覚えた。それは、アンドリス・ネルソンスがボストン交響楽団の機能美を極限まで引き出し、ひたすら管弦楽のヴィルトゥオーゾ(名技)交響曲化を図るショスタコーヴィチの録音にも通じる世界で、今後一つの流れを形成しそうだ。


これに対し井上道義が読売日本交響楽団第611回定期演奏会(9月29日、サントリーホール。コンサートマスター=林悠介)が指揮したショスタコーヴィチ「交響曲第9番」はネルソンスの完璧なまでの対極、かつて耳にしたことがないほど重く暗い世界を描き尽くした。演奏時間は30分を超え、ふだん聴く諧謔味に徹した軽快な感触は大幅に後退している。とりわけ第2&第3楽章のクラリネットソロ(東京交響楽団首席のエマニュエル・ヌヴーがゲスト出演)とアンサンブルには極限まで追い詰められた人間のうめきのようなものを覚え、血の気が引いた。井上は終演後「これが楽譜に指定された通りのテンポで、みな早く振り過ぎる」。さらに「1945年7−8月の作曲ということは、広島と長崎への原爆投下もショスタコーヴィチは知っていたわけで、決して軽い作品ではないよ」と、解釈の基本を明かした。


その前に置かれたストラヴィンスキーの「管楽器のための協奏曲」は1920年初演。フランスの音楽雑誌が1918年に亡くなったドビュッシーを追悼する楽曲を10人の作曲家に委嘱したうちの1つで、単一楽章の哀悼曲の体裁を備える。ドビュッシーの死は第1次世界大戦で崩壊した「古き良き時代」のヨーロッパ終焉と重なり、ストラヴィンスキーもロシアに残していた財産を失い、パリでも大規模な創作を受注できない状況にあった。一皮むけば断末魔の叫びも聞こえてきそうなバランスの上に成り立った作品を井上は慈しむように指揮した。


前半は1960年生まれのウクライナ&ルーマニア系ユダヤ人でアルゼンチン生まれ、イスラエルから米国へ渡ったオズバルド・ゴリホフの「チェロ協奏曲《アズール(青)》」(2006)日本初演。 宮田大のチェロ独奏のほか、大田智美のアコーディオン、海沼正利と萱谷亮一のパーカッションが鮮やかな色彩を添え、有馬純寿の音響(サウンドエンジニアリング)が見事なバランスを整えた。ゴリホフには2014年、日生劇場がオペラ《アイナダマール》を日本初演した際にインタビューしたことがある。そこで「最初は完全なモダンコンポーザーだったが、次第に新旧あるいはジャンルの異なる音楽形式を融合させる方がより広い聴衆層に訴えると考え、路線を変化させてきた」と語った通り、「チェロ協奏曲」もジャズやロック、ロシア&東欧、環境音楽といった多彩な要素を織り交ぜ、今日の聴衆を強く惹きつける作品だ。


井上は宮田をはじめとするソリストたちの並外れた集中力と陶酔、読響の全身全霊の献身を一つの大きな音楽の円にまとめ上げた。終盤の長大なカデンツァの間、井上は指揮台に腰を下ろしてソロの妙技に聴き入る仕草をとりながら、スコアに手を伸ばしてページをめくっていた。コロナ禍の影響で来日できなくなった指揮者、イラン・ヴォルコフが選んだ作品を代役で引き受け「訳がわからない」といった悪態もつきながら、ここまで高水準に仕上げた井上の力量は、やはり瞠目に値する。最近の宮田はどんな作品からも、そこに込められた人間の「肉声」を確かに引き出し、温もりを与える手腕でも傑出した解釈者になりつつある。


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