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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ミューザ川崎15周年、ノット&東響が生み出したロマンの洪水「グレの歌」


ミューザ川崎シンフォニーホール開館15周年記念公演、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団&東響コーラス(合唱指揮=冨平恭平)によるシェーンベルク「グレの歌」の2日目を2019年10月6日、同ホールで聴いた。ソリストは全員外国人でヴァルデマールにトルステン・ケール、トーヴェにドロテア・レシュマン、山鳩にオッカ・フォン・デア・ダムラウ、農夫にアルベルト・ドーメン、道化師クラウスにノルベルト・エルンスト、語りにトーマス・アレンと、ビッグネームが並んだ。今年8月のザルツブルク音楽祭でも確認したが、ノットの評価はヨーロッパでも高く、オペラとコンサートの両分野で目覚ましい活動を繰り広げている。私が旧西ドイツのフランクフルト・アム・マイン市に住んでいた当時、市立劇場オペラの音楽スタッフの1人として「有能な英国人の若者がいる」と聞き、プログラム冊子に載っていた「ジョナサン・ノット」の名を頭に刻み込んで以来30年。シェーンベルクの巨大な声楽&管弦楽を一分の隙もなくリード、圧倒的感銘を与えるマエストロに成長した勇姿を拝めた感慨は深い。今年は首都圏で3つの「グレの歌」が奏でられたが、ミューザ川崎の容積と音響はサントリーホール、東京文化会館大ホールよりも作品にふさわしい。


3月のシルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団の演奏も傑出したもので、後期ロマン派の音響の洪水、飽和感に圧倒されたが、ノットはミューザのトランスパレント(透明)な音響特性を生かし、洪水の中に潜む様々な音のニュアンス、線の綾まで、くっきりと描き出した。東響も東響コーラスも音圧だけでなく、あくまで音の透明度と柔らかさを保ち、巨大な作品像を克明に再現していた。


独唱者。ケールは先年の新国立劇場「タンホイザー」(ワーグナー)題名役でも露呈した声の衰えを隠せず前半は苦戦したが、後半は持ち直し、第2部の王のアリアでは歌い込んできた蓄積を存分に発揮した。レシュマンも長く接してきた優秀な歌手ながら、全盛期は過ぎたかと思われる声の限界を感じた。フォン・デア・ダムラウは瑞々しい声と端正な歌唱で存在感を示しつつ、アンサンブルの一員としてのバランスにもたけていた。当初予定の藤村実穂子だと多分、存在感が飛び出してしまっただろう。ドーメンとエルンストも持ち場を十分に守り、アレンは大歌手の存在感を語り手でも示した。また昔話になるが、今から30年近く前、ミュンヘンのバイエルン州立歌劇場でヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮、アウグスト・エーファーディンク演出の「ドン・ジョヴァンニ」(モーツァルト)題名役を颯爽と歌い演じていたアレンが今なお舞台に立ち、カーテンコールでは、柔らかく温かな雰囲気で聴衆を包み込む。美しい夕映えの姿にはあれこれ、考えさせられるものがあった。


終演後の長い長い拍手のあとに楽屋を訪れると東響の前音楽監督、ユベール・スダーンが後任者ノットに駆け寄ってハグと握手、「Sehr schoen!(素晴らしく美しい)」と絶賛した。スダーンが整えた土台にノットが新たな感覚の柔軟性を与え、東響は前に進み続ける。

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