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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ホールオペラ「椿姫」、新国立劇場「チェネレントラ」、石崎秀和、柴田智子

更新日:2021年10月12日


声、歌、ドラマ!

2021年10月。感染症対策の緊急事態宣言は解除されたが、欧米諸国との往来は帰国後の隔離待機など、不自由を依然伴う。まだ、気軽な旅に出られそうもない。11年ぶりに復活したサントリーホールの登録商標「ホールオペラ」のヴェルディ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」(10月7日)の指揮者、ニコラ・ルイゾッティが東京交響楽団(東響)から引き出すイタリアの歌心、熱気の振幅にあおられながら「しばらくは音や味覚でヴァーチャルな旅行気分を味わうことにしよう」と、気分を立て直した。10月初旬は何故か「歌もの」に多く出かけた。8日はバリトンの石崎秀和リサイタル(古賀政男記念館けやきホール)、9日は新国立劇場のロッシーニ「チェネレントラ」、10日はソプラノの柴田智子がテノールの金山京介を迎えて企画したコンサート(豊洲シビックセンター大ホール)と、聴き続けた。


1)パリ

ルイゾッティ指揮の「トラヴィアータ」は2019年4月、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)でも観た。オペラデビュー60周年!に当たったプラシド・ドミンゴのジェルモンに観客の関心が集中、第2幕で姿を現した途端に拍手歓声の渦となり、ルイゾッティも振るのを断念せざるを得ず、エンジン全開までには至らなかった。今回は久々の来日とはいえ、かつて首席客演指揮者を務めるなど気心知れた東響に輝かしいイタリアの響きを与えて緩急自在、ドラマティックな棒さばきで上演全体の要となった。田口道子の演出は限られた空間と予算のなか、第1幕の宴会シーンに多少の寂しさを残した以外はかなり手際よくヴィジュアルを作り、キャストが歌いやすい動きを与えていた。第2幕舞踊シーンでは東京バレエ団のダンサー3人が素晴らしい存在感を発揮したが、サントリーのホールオペラに日本舞台芸術振興会(NBS)系列のバレエ団が出演したこと自体、個人的には「事件」だった。


ヴィオレッタのチェコ人ズザンナ・マルコヴァ、アルフレードのサルデーニャ出身イタリア人フランチェスコ・デムーロともベルカントの伝統的テクニックと軽やかさが求められる第1幕より、声の重量とドラマティックな表現のハードルが上がる第2&3幕に向いた歌手だ。デムーロの2幕冒頭のカヴァレッタとアリア、続くマルコヴァとジェルモン(ポーランド人アルトゥール・ルチンスキー)の二重唱、フローラのパーティーでアルフレードがヴィオレッタを侮辱する場面など、時間の進行とともにオペラを聴く醍醐味が増していった。デムーロは「ここぞ」というアクート(最高音)をうんと引っ張ってドヤ顔だし、マルコヴァが第3幕の「アッディーオ(さようなら)」のアリアでみせた憑依系の迫真もすごかった。ルチンスキーはクリスタルな美声でイタリア語の発音も明晰な半面、若さもあってか、最近のリアリズム重視のジェルモン像のご多分に漏れず、あまりにも直線的でサディスティックな歌の感触がアリア「プロヴァンスの海と陸」の感動を弱めてしまったことは否めない。


脇を固める日本人歌手の中ではフローラのメゾソプラノ、サントリーホールオペラアカデミー1期生で現在はミラノ在住という林眞暎の声量が傑出していたが、プレゼンス過剰のゾーンまで針が触れきった感が残る。第3幕に至るまで一貫してヴィオレッタに寄り添うアンニーナ役の水戸はるなは控え目過ぎ、林で聴いてみたいと思った。2階正面のゾーンで聴くと日本の男声陣の声が総じて飛ばないなか、使者/召使いの小林健人の声だけは良く届いた。終演後のカーテンコールでルイゾッティが再び指揮を始めた。東京が弾き出したのは「ハッピーバースデー・トゥ・ユー」。大きな花束を渡されたマルコヴァは感極まり、同僚たちとハグにキス。感染症対策からみて「禁じ手」続出だが、誰も止めることはできなかった。


2)ローマ

新国立劇場の「チェネレントラ」は2021/2022シーズンのオープニング演目で粟國淳の新演出、指揮はベルカントに長けたイタリアのマエストロ、マウリツィオ・ベニーニの来日不能に代わり、ワーグナーのスペシャリストと思われてきた城谷正博が務めた。イタリア育ちの粟國は舞台を映画全盛期(フェデリコ・フェリーニの時代)のローマの撮影所チネチッタに移し、最後に主役の座を射止めるシンデレラ・ガールとしてアンジェリーナ(脇園彩)を描く。王子ドン・ラミーロ(ルネ・バルベラ)は大プロデューサーの息子、アリドーロ(ガブリエーレ・サゴーナ)は映画監督だ。粟國はローマ出身の美術衣装家アレッサンドロ・チャンマルーギと2人で華やかで美しく陰影に富み、モダンでキッチュな感覚、際どいジョークの毒も忍ばせたヴィジュアルを見事に造形した。現代人にも理解しやすいシンデレラ・ストーリーへの読み替えに、スピーディでスタイリッシュなロッシーニの音楽が良く合った。


キャストでは脇園、バルベラが圧巻。サゴーナのキリッと引き締まったイタリアのダンディズムも素敵だ。継父ドン・マニフィコのアレッサンドロ・コルベッリは大ヴェテランで声の衰えは隠せないが、立っているだけでブッフォ(喜劇俳優)の強烈な存在感を放ち、ロッシーニの「肝」の部分をしっかりと支える。ラミーロの従僕ダンディーニの上江隼人は体形がバルベラと瓜二つ。2人の絡みは常にユーモラスで、そのままM1グランプリに出られそうな感じがした。意地悪な姉2人、高橋董子と齊藤純子はコミック雑誌から飛び出したようなオーバーアクションとメイク、衣装。ふだんの美貌をかなぐり捨てての熱演だった。


城谷は東京フィルハーモニー交響楽団を柔らかな響きでしっかりと鳴らし、歌手の引き立て役に徹した。「ロッシーニ風ではない」「アンサンブルを引き締めきれない」といった批判がないわけではないが、長くこの劇場で副指揮者やプロンプターを務め世界の指揮者と働いてきた実力者だけに、最後は作品の良さだけが記憶に残る立派な代役ぶりだったと思う。


3)ウィーン

2つのオペラの間に聴いた石崎秀和のバリトン・リサイタルは前田勝則のピアノでシューベルトの「白鳥の歌」を中心に前半がザイドル、ハイネ、後半がレルシュターブと詩人別に構成した。後半冒頭、「流れの上で」1曲だけのためにNHK交響楽団首席ホルン奏者の今井仁志がゲスト出演した。「魔笛」(モーツァルト)や「午後の曳航」(ヘンツェ)などのオペラ出演が記憶に残る石崎だが、ウィーン国立音楽大学リート・オラトリオ科を修了している。柔らかなカヴァリエーレ(騎士風)バリトンの美声を適確にコントロール、きちんとしたドイツ語で歌詞を丁寧に語りかけ、傍には日本語対訳を投影するなど、リート(ドイツ語歌曲)にかける並々ならない思いに先ず、胸を打たれる。オペラで鍛えた演技力で、歌の主人公たちのキャラクターも巧みに描き分けられる。半面、コロナ禍で1年延期しての開催に伴う強い意気込み、久しぶりのリサイタルへの緊張の結果か、音が一番上まで上がりきらなかったり、フレーズ全体の音程が定まらなくなったりの箇所があったのは少し残念だった。


前田のピアノは長年のコンビなのかアンサンブルが完璧で、伴奏にとどまらない積極的な音楽を聴かせた。今井のホルンは、贅沢な耳のご馳走。アンコールには前半3曲目にあったザイドル作詞、シューベルト最晩年の「鳩の便り」が再び歌われた。緊張から解き放たれたのか、自由自在に動く歌となり、味わい深い一夜の余韻を一段と豊かに締めくくった。


4)ニューヨーク&ブエノスアイレス

「柴田智子の自由で素敵なコンサートVol.5」は「SONGS FOR LIBERTY」、さらに「ピアソラ生誕100年と究極の愛のデュエット」と副題がつく。いつも「長過ぎる」と思う第1印象は構成(曲数と演奏時間)、主にピアノ&編曲の追川礼章(あやとし)が担う解説MCの台本(柴田が執筆)の語数など、ある意味、コンサート全体に及ぶ。逆にいえば、それだけ「言いたいこと」「主張したいこと」「表現したいこと」が柴田の脳内&体内にあふれ、「すべてをお伝えしたい」と願う究極の奉仕精神の反映だろう。プロデュースも演出も構成も一手に引き受け、共演者の選定や交渉、スポンサーの獲得までを柴田がほぼ1人でこなすため、本番のテンションは極限まで上がり、発声がかすれたり、歌詞を間違えたり、しゃべるきっかけを忘れたりもする。毎回「あと少し抑制があれば」「そろそろ〝引き算〟の美学をマスターしてほしい」「休憩込みで2時間以内に収めてくれれば」と思いつつ、欠かさず通い続ける理由を改めて、考えてみた。たまらない人の良さと、全身全霊のサービス精神。自分に決して満足せず、病気など人生の苦節を乗り越え、なお前へ進もうとする向上心。コンサートの印象が毎回大きく変わるのは、あの長いタイトルに惑わされるからではなく、1回ごとに発声をつくり直し、新たな領域に踏み込む挑戦精神の結果だから、聴きに行く。


今回は二期会の若手テノールのホープ、長身で好青年の金山京介、柴田のニューヨーク時代からの友人という舞踊家の馬場ひかりがゲストで加わり、情報量が一段と増した。ヴェルディ、ドニゼッティのオペラのデュエットは金山の有り余る美声に押されがちだったが、夜のデパート内で密かに暮らす人々!を題材にしたソンドハイムの不思議なテレビミュージカル「イブニングプリムローズ」、小説と映画が大当たりした「マディソン郡の橋」のミュージカル版(J・R・ブラウン)、さらに十八番であるガーシュインのオペラ「ポーギーとベス」からの名曲「サマータイム」など、柴田が日本への紹介をライフワークとするアメリカン・シアター系のナンバーは作品自体が面白く、金山ともども歌と演技の精度が上がった。


後半のピアソラ7曲の大半は追川の新アレンジ、オペラ「ブエノスアイレスのマリア」からの「私はマリア」だけがスペイン語。4曲は柴田訳の日本語歌詞で「アディオス・ノニーノ」が馬場の舞踊(美しい身体表現の極み!)、「忘却(オブリビオン)」が金山との共演。他2曲は追川のピアノソロとメリハリをつけ、タンゴでもジャズでもクラシックでもない「ピアソラの音楽」の魅力を多面的に再現した。自身の訳詞だけに柴田の感情移入、没入は凄まじく、追川のピアノも一段の精彩を放った。


柴田と金山のデュエットによるアンコールは永六輔作詞、中村八大作曲の「上を向いて歩こう」(1961)。60年前のヒット曲なのに、コロナ禍長期化に疲弊する2021年の人心を依然として励まし、授ける希望の強さに驚くとともに、2人の歌手の温かな人柄も感じさせ、後味の良い幕切れだった。

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