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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ネルソンスとSKOのマーラー「第九」→ネトピルと読響の「新世界」中欧の豊穣


撮影=山田毅、写真提供=セイジ・オザワ松本フェスティバル

2022年11月最後の週末。26日は長野市のホクト文化ホール(長野県県民文化会館)の「セイジ・オザワ松本フェスティバル30周年記念特別公演」。かつて小澤征爾が30年にわたって君臨したボストン交響楽団(BSO)の現音楽監督アンドリス・ネルソンスがサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)と初共演、マーラーの「交響曲第9番」を指揮した。BSOとのツアーを終えた後も家族と日本にとどまり、京都などで英気を養ったそうだ。BSOは夏場にタングルウッド音楽祭を主催、ネルソンスも演奏と教育の両面で陣頭指揮をとるため、秋の特別演奏会の形でようやく招聘が実現した。前日(25日)、キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)の松本公演には総監督の小澤征爾もカーテンコールに現れた。


撮影=大窪道治、写真提供=セイジ・オザワ松本フェスティバル

「サイトウ・キネン・フェスティバル」の名称で発足してから30周年の節目に当たった2022年、今後の展開に一筋の光がさした気がする。夏の本番では、オペラ「フィガロの結婚」(モーツァルト)でデビューを飾った沖澤のどかが、これまでに招かれた男性の先輩&同僚の日本人指揮者の誰もが達成できなかったほどの大成功を収め、確かな存在感を発揮した。小澤が指揮した時期、マエストロはコンサートマスターがチューニングを終えた後ではなく、メンバーと一緒にステージに現れ「みんなで音楽する」姿勢をはっきりと打ち出していた。ネルソンスはゲストだから最後に現れるものの、BSOとの演奏会でも示したように、オーケストラを強引にドライヴする瞬間は皆無だ。メンバー1人1人と丁寧に心を通わせ、かなり時間をかけて求心力を整え、自発性の極めて高いアンサンブルから、たっぷりとした歌を引き出していく。世界一流の奏者を集め、自然で大きな音楽をつくる方法論において、ボストンの後継者は松本でも、オザワの精神を最も理想的な形で引き継いだように見えた。


マーラーの「第9」は小澤、ファビオ・ルイージに続き、SKOのフェスティバルで3回目の登場。BSOとの「第6番《悲劇的》」(2022年10月9日、横浜みなとみらいホール)でも同じ傾向を感じたが、ネルソンスは全く策を弄せず、すべての声部に目を配りながら淡々と振り続ける。最初は焦点を絞りきれないところもあるのだが、次第にアンサンブルが有機体と化し、響きの粘度と焦点が絞られていく。「ある1点」を境に何かが憑依、生き物のように動き出す感触では、クラウディオ・アバドを彷彿とさせる音楽性の持ち主といえる。SKOの場合はホルンのラデク・バボラク、ハープの吉野直子、トランペットのガボール・タルコヴィ、フルートのジャック・ズーンら「超」のつく名手たちが指揮者とは別のラインで積極的な「会話」も繰り広げるので「第9」は最初から、かなりの水準で走り出した。技量の高さは「ノーミス」といった次元を突き抜け、ただただ妙技に聴き惚れる。そして第3楽章の半ばあたり、ついにネルソンスの巨大な音楽がうねりだした。もはや棒は振らず、全身のアクションで「こうしてほしい」の気持ちを伝え、オーケストラが全力で受け止める。それまで管に比べ控えめな存在だった弦が、一斉にうなりを上げる。激しい集中と静寂が支配する弱音から分厚い音の絨毯まで豊嶋泰嗣、矢部達哉のダブルコンマスのリードで表現の限りを尽くした第4楽章の充実は破格だった。「また客演してほしい」と、誰もが思ったはずだ。


27日は午前11時の北陸新幹線で長野を出て午後12時半に上野着、池袋の東京芸術劇場コンサートホールで2時開演予定の読売日本交響楽団第252回日曜マチネーシリーズに余裕で間に合った。池袋の街を久しぶりに小1時間散策したが、丸井が取り壊されたり、名店が別業種に変わっていたりで、かつての面影が激減していた。読響の指揮者はドイツ・エッセン歌劇場の音楽総監督(GMD)を務めるチェコ人トマーシュ・ネトピル、ヴァイオリンのソリストは岡本誠司で、ともに私が「音楽の友」誌のためにZOOMでインタヴューした相手。終演後に楽屋を訪ね、リアルでお礼を伝えた。コンサートマスターは日下紗矢子。プログラムはマルティヌーの「歌劇《ジュリエッタ》序曲」、モーツァルトの「ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K219《トルコ風》」、ドヴォルザークの「交響曲第9番ホ短調作品95《新世界から》」。SKOの直後では「聴き劣りがするのではないか」と危惧したが、読響には好調の常設オーケストラならではの個性と求心的な響きがあり、杞憂に終わった。ごめんなさい!


ネトピルはプラハでラドミル・エリシュカ、ヘルシンキでヨルマ・パヌラに師事したバックグラウンドにふさわしく、無駄なく引き締まり、オーケストラを適確にリードする技術の持ち主だ。まずはマルティヌーのモダンなオーケストレーションを華やかに再現、2度目の客演で読響を「鳴らす」コツをつかんだと思わせた。協奏曲では、ウィーン国立歌劇場にモーツァルト歌劇のスペシャリストとして頻繁に登場する実績の片鱗をうかがわせた。自身もヴァイオリニストなので(初来日は指揮ではなく、室内オーケストラのメンバーとして)岡本の音楽性を深く把握、殊更ピリオドを強調するでもなければ分厚く鳴らすでもない、現時点で最も妥当な響きをつくった。岡本の音は非常に美しく、3つの楽章それぞれでたっぷりとカデンツァを挟み、時にはオーケストラのトゥッティ(総奏)に音を重ねる。ようやく日本にも「臭み」なく、インターナショナルなスタンダードをさらりと達成できるソリストの時代が訪れつつある。アンコールは自身でヴァイオリン・ソロに編曲した「トルコ行進曲」。


後半の「新世界から」は一点一画揺るがせにせず、第1楽章のリピートも実行する入念な演奏だった。「日本のオーケストラが《新世界》をこれほどまでの頻度で演奏、場合によっては好ましくない弾き癖が刷り込まれてしまっている実態を初めて知りました」と打ち明け、リハーサルでは表現のデフォルト(基準値)を回復させるのに時間を費やしたという。結果、チェコ特有のリズム、チェロとコントラバスの低弦アンサンブルが醸し出す味わいなどの細部がくっきりと浮かび上がり、国民楽派のエスニックなテイストの背後に潜むモダンな管弦楽のセンスも満喫できた。この曲の16年後にはマーラーの「第9」が生まれているわけで、ブラームスからドヴォルザーク、ブルックナー、マーラーに至る当時の中欧文化圏の音楽の豊穣に、改めて思いをはせた。




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