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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ドイツの論理で可視化された「サロメ」デッカー演出・ヴァイグレ指揮の二期会


妙にモノトナスでシンボリックな表紙には意味がある

東京二期会がR・シュトラウスの「サロメ」を2011年以来8年ぶりに、東京文化会館大ホールで上演した。前回はペーター・コンヴィチュニー(ネザーランド・オペラ、イェーテボリ歌劇場との共同制作)、今回はヴィリー・デッカー(ハンブルク州立歌劇場との共同制作)とドイツのムジークテアーター(音楽劇場)路線の演出家を一貫して採用。東京二期会がデッカーと舞台美術家ヴォルフガング・グスマンのコンビによる舞台を手がけるのは「イェヌーファ」「トリスタンとイゾルデ」に続いて3作目となり、日本人歌手の体内にも一定の方法論が醸成されたのか、自然で完成度の高い演技に結実していた。


デッカーは「サロメ」にまとわりついてきた過剰な色彩感と異国趣味を取り去り、銀の盆=月に支配された淡彩の装置と照明、スキンヘッズとキッチュな王冠が象徴する記号化された人物像を通じ、原作者オスカー・ワイルドの戯曲が描いた背徳の世界、セリフの背後に隠された緊張をはらんだ人間関係などを具体的に細かく可視化していく。「7つのヴェールの踊り」は義父ヘロデ王との近親相姦の歴史の図式化となり、ヘロディアスがピラミッドの頂上から冷ややかな視線を浴びせる。願わくは踊りの象徴的な所作にもう少し、歌舞伎など日本の伝統的ノウハウを取り入れ、遠くから見ても美しく意味が伝わるようにしてほしかった。


「実は一番おかしな人間(周囲と関係なく、お説教ばかりしている)なのではないか」と私が長く密かに思ってきたヨカナーンの存在感は、通常の演出より著しく希薄で、お定まりの井戸もない。5人のユダヤ人の宗教論争も、徹底的にカリカチュアライズ(戯画化)される。舞台の上下を貫く巨大な階段状テラスの立ち位置次第で、人間関係が明確に示される。


極めつけは、幕切れ(ネタバレ、ごめんなさい)。ヘロデが「あの女を殺せ!」と叫ぶやいなや、サロメは「私を弄んだエロ親父に殺されるくらいなら、自分で死んだ方がよっぽどマシよ!」と言わんばかりに自刃して果てる。ドイツ人の論理的思考の産物としか言いようのない帰結だが、私自身のテイストは日本人らしく?、もっとファジー(曖昧)であればと思う。ちょうど「イゾルデ愛の死」のように病なのか事故なのかエクスタシー過剰なのか……よくわからない状況の中で法悦の最期に至るあたりで収め、余韻を残す方がしっくりくる。最後の音が消えた瞬間、ドイツオペラなのに「ブラーヴァ!」とご丁寧にイタリア語の女性形で歓声を上げたトンデモ客が1人いたが、あそこまで明瞭な死〜トスカの身投げを思わせる〜を見せられたら、このように不届きな反応が出ても不思議はない。全体としては非常にすっきり、好感の持てるビジュアルと解釈であり、物語が自然に入ってくる。


フランクフルト・アム・マイン市立劇場オペラ音楽総監督(GMD)のセバスティアン・ヴァイグレは今年5月、常任指揮者に就任したばかりの読売日本交響楽団とともにピットを担い、デッカー演出とエステティックス(美意識、美学)が完全に一致した音響を再現した。すなわちウィーン風にクリームたっぷりの甘美なシュトラウスではなく、ドレスデンやライプツィヒ、ベルリンなどで奏でられてきた木やコットンを思わせる、ちょっぴりビターな響きで人間存在のリアリズムを際立たせる音楽づくり。2年前の東京二期会公演「ばらの騎士」で読響を指揮した時よりオーケストラ、さらに日本人歌手とのコレスポンデンスが格段に改善、進化しているのも収穫だった。初日、2019年6月5日のキャストでは題名役の森谷真里、ヘロディアスの池田香織の女性歌手2人が傑出した歌唱と演技で、世界水準をクリアした。ヘロデの今尾滋も大健闘した。ヨカナーンの大沼徹は丁寧な歌唱ながら、8年前のコンヴィチュニー演出で示した強い印象を今回、再現できなかった。一時的なコンディションによるものなのか、響きを吸い込んでしまう装置の構造によるものなのか、にわかには判定できないが、8日の(彼にとって)2度目の上演では思う存分、本領を発揮してほしい。ベテランと新人とり混ぜた5人のユダヤ人(大野光彦、新海康仁、高柳圭、加茂下稔、松井永太郎)は難しいアンサンブルの課題をクリア、演技にもメリハリがあって感心した。


脇役の一部に全く声が聞こえず、ドイツ語も不明瞭な人がいたとか、粗探しをすればキリがないものの、とにかく、日本人歌手だけでこれほど高水準の「サロメ」を上演できるところまできたことの喜びは大きい。むしろ、妙に冷めた客席の反応の方が気になってしまった。


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