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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ジョナサン・ノット実質2年ぶりに日本の「ホーム」ミューザ川崎で東響を指揮


デフォルト@フランチャイズのありがたみを実感

音楽監督ジョナサン・ノットが指揮する東京交響楽団特別演奏会を2021年5月27日、フランチャイズ(本拠地)のミューザ川崎シンフォニーホールで聴いた。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)世界的拡大(パンデミック)の影響により、ノットがテレワークではなく〝生身〟でミューザに現れ、東響を指揮する機会は2020年を通じて1度もなかった。今年3月にはノット自身がPCR検査で陽性判定を受け、さらなる不在も懸念された。だが日本にかける強い思いで健康を回復、事務局懸命の努力もあって実質2年ぶりの復帰が実現した。曲目は前半がベルク「ピアノ、ヴァイオリンと13管楽器のための《室内協奏曲》」(ピアノ=児玉麻里、ヴァイオリン=グレブ・ニキティン)、後半がマーラー「交響曲第1番《巨人》」(コンサートマスター=水谷晃)。今から2年前の2019年8月10日、ザルツブルク祝祭(音楽祭)期間中にフェルゼンライトシューレで聴いたノット指揮ORF(オーストリア放送協会)交響楽団(日本ツアーでは「ウィーン放送交響楽団」を名乗る団体)の演奏会は《巨人》の前に、ベリオの「ヴィオラ独奏と2群の器楽集団のための《ヴォーチェ》」(ヴィオラ=アントワーン・タメスティ)が置かれていた。近現代の特殊編成の傑作と対比させるのがノット流なのだろう。先ずは当時の拙レビューを抜粋、再掲してみる:


→「巨人」の愛称で呼ばれることが多いマーラー最初の交響曲。対向配置のヴァイオリン2群、入念なリハーサルを行いつつも本番では一瞬一瞬のドラマの誕生に賭け、大胆な即興に打って出るノットの基本姿勢はvs東響でもvsORF響でも、まったく変わりがない。ところが、結果として立ち上る響き、音色の異様なまでの違いには言葉を失った。とりわけ第3楽章の中間部、フランスの暗い子どもの歌の変奏が一転、ボヘミアの草原に広がる民謡旋律の白昼夢に飛躍した瞬間の極限まで美しく磨き抜かれ、柔らかさの極みの響き、ウィーンのクリームを思わせる皮膚感覚は、「オーストリアのジョナサン」の面目躍如だった。フェルゼンライトシューレの特異な構造を踏まえたバンダ(別働隊楽員)の配置、マーラーの「できれば、そうしてほしい」くらいの消極的指示を全面的に採用したコーダ(終結部)でのホルン全員起立などなど、この曲にまつわるクリシェ(通念)はことごとく踏襲しつつ、世界の聴衆とウィーン音楽の関係の「今日」に鋭い考察を加えたホットな演奏の意図は、客席へと確実に伝わった。物凄いブラヴォー、拍手の嵐! 終演後の楽屋ではノットも「自分は何も変えていないのに、東響とは東京、ORFとはウィーンの音がする。街ごとに化学反応の結果の音色が変わるのが面白い」と漏らした。日本のオーケストラにもしっかり、固有の音色が備わっている現状への逆説的証明としても、後味のいい演奏会だった。←


今夜のミューザは「逆の逆」。コロナ禍進行中の2021年5月、日本でしか奏でられない《巨人》を確かに刻印した。激しく加速してたたみかける瞬間はしっかり用意されているにもかかわらず、全体の演奏時間は1時間を超えた。すべての音に血を通わせ克明に再現しようと粘るため最初はオーケストラ側に多少の戸惑い、指揮者との温度差があったようにも思われたが次第に噛み合い、精度を上げていった。演奏順とは逆に後述するベルクが真夜中なら、マーラーは夜明けから真昼にかけての音楽で、ステージ照明の明度にも差をつけていた。マーラーには「世紀末」「病的」「神経質」といったイメージがつきまとうが、第1番は来るべき20世紀の到来にも胸を弾ませていた28歳の作曲家&指揮者の、青春そのもののような作品だ。明るくストレートなだけでなく、傷つきやすく繊細でもある。多感な人間が世の荒波に投げ出され、あれこれ体験しつつも希望を絶やさず、未来の光を信じる様が今、コロナ禍のさなかにある私たちの生への不安と渇望に重なり、深く胸を打つ。ザルツブルクで白昼夢のように美しく響いた旋律が、今夜は日常の間(はざま)に現れた唐突な空白や、それを乗り越えた「生存」(Überleben)への強い意思として響く。随所で室内楽的にじっくりと音を聴き合い、ゆっくり重ねていく時間を楽員に委ねた背景には「人は群れることなくして生きられない」真理すら否定されがちな現状への抵抗も感じる。まさに一期一会の演奏だ。


前半のベルクでは「群れる」が「交わる」として、より官能的に表現されていた。ノットが指揮するとベルクの音型は〝火照り〟を帯び、クリムト絵画のような色気を醸し出す。児玉姉のピアノが素晴らしいことは元より明白ながら、これほどまでに鋭く「エロい」とは思わなかった。上手なだけでは足りない、アブナイ雰囲気がムンムンと漂い絶品だった。ヴァイオリンにロシア人のニキティンを指名したのはノットの慧眼。水谷に比べてもソロや室内楽の機会が少なく、根っからのコンサートマスターに思いがちだったが、世紀転換期特有のねっとりと怪しく、猥雑な芸術の〝匂い〟を自然に放てる感性は残念ながら、日本人にはまだなかなか、期待できないものだ。13人の管楽器奏者の力量も確か。最近の日本のオーケストラ演奏会では、管楽器首席のソロの見事さがしばしば話題に上るので「ならば、1まとめに聴かせてしんぜよう!」みたいにプレゼンテーションしたのもまた、ノットのセンスだ。


マーラーが終わり、「私たちのシェフ」復帰に客席の興奮は最高潮に達した。何度目かのカーテンコール。ノットは「ブラヴォー・タオル」の逆ばり、「I'm home ただいま!」の幕を大きく広げ、全方向に喜びを伝えた。楽員も知らなかったサプライズ。彼らが袖に消えても拍手は鳴り止まず、いわゆる「お立ち台」、ソロ・アンコールに現れたノットはもう1枚、タオルを広げた。そこには「Thank you ありがとう!」と書かれていて、客席全体がスタンディングで返礼の気持ちを表した。元気で戻ってきてくれて、本当に良かった。

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