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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

ショスタコーヴィチ「交響曲第8番」の名古屋フィル初演、井上道義指揮の凄絶

更新日:2022年3月16日


早めにホテルへ戻り、演奏を反芻する

名古屋フィルハーモニー交響楽団第499回定期演奏会(2日目=2022年3月12日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

指揮=井上道義、チェロ=佐藤晴真※、コンサートマスター=荒井英治

ハイドン「チェロ協奏曲第2番ニ長調作品101」※

ソリストアンコール:J・S・バッハ「無伴奏チェロ組曲第6番ニ長調 BWV1012」〜第4曲「サラバンド」

ショスタコーヴィチ「交響曲第8番ハ短調作品65」


2021/2022シーズンは「スペシャリティ」シリーズと名付けられ、「交響曲第8番」の名古屋フィル初演奏はショスタコーヴィチのスペシャリストで定期4年ぶり登場の井上道義に委ねられた。チェロのソリストには名古屋市出身の佐藤晴真。しなやかで優美、隅々まで良く歌わせたハイドンの後、端正だが強い意思をこめて、バッハを弾いた。井上の指揮はピリオド奏法を過度に反映させず、引き締まった古典美と明るい音色でソリストを支えた。


佐藤の好演が「贅沢な前菜」以上の記憶を残さなかったとしたら、後半の演奏時間60分に及ぶショスタコーヴィチが、あまりに凄絶だったからだ。この曲を最初に実演で聴いたのは1993年4月18日、サントリーホールのアレクサンドル・ラザレフ指揮ボリショイ交響楽団の日本公演だった。前半は同じくチェロで、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチがチャイコフスキーの「ロココ変奏曲」を弾いた。旧ソ連崩壊2年後、誰もが東西冷戦の終結とより調和した世界の到来を信じていた時期だったから余計に、激しい戦闘を再現し、体験者が心に負った傷を深く描いた作品の強烈さに唖然とさせられた。最終楽章が終わった瞬間の沈黙に耐えきれず、フライング拍手した青年を一部ファンが取り囲み、糾弾した光景まではっきりと覚えている。それほどまでに人心をえぐり、ただならない感情を喚起する作品といえる。


名古屋フィルが井上をブッキングした時点で、ロシアのウクライナ侵攻は「想定外」だったはずだ。現実の戦闘が繰り広げられ、悲痛な叫びがネットを通じてリアルタイムに伝わる中でこの曲を聴くことになるとは、最近まで夢想だにしなかった。演奏至難の大曲に備え、リハーサルは通常の定期より1日多い4日間を確保した。2公演を終えた後、井上が「名フィル、大したもんだった!」とLINEで送ってきたように、全員が楽曲への深い共感を示し、隅々まで血の通った音で、集中した最弱音からカタストロフィーの爆音までムラなく緻密に再現した。公演プログラムに載ったショスタコーヴィチはじめロシア音楽を専門とする音楽学者、一柳富美子さんの解説は難解な楽曲分析ではなく「大規模な進軍にも似た金管」「眼前の戦闘の嵐」「一体これは何だ?戦闘の更なる激烈な表現か、抑えきれぬ怒りか?」「戦時を回顧するかのようなアダージョ」など極めてわかりやすく、鑑賞の精度を高めてくれたと思う。


あまりにリアルな音楽体験に会場は静まり返り、フライング拍手もなかった。次第に盛り上がる熱い反応に対し、マエストロも楽員も達成感の余韻に浸った。日本のショスタコーヴィチ演奏史に燦然と残るべき名演奏だろう。1943年の「戦闘の記録」が80年近く経った今、再びリアルな音響となってしまった愚かさ、悲しさとともに、長く心に刻んでおきたい。

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