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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

シュタットフェルト「源流探し」は続く


終演後のサイン会では好青年そのもの(2018年11月25日、すみだトリフォニーホール)

休憩20分をはさんで2時間半、緊張は一貫して途切れなかった。キャプテンだけが航路を知っていて、乗客はいったいどこを通ってどこへ向かうのか、全く知らされていないミステリーツアーの雰囲気に包まれた不思議な音楽の時間だった。ドイツのピアニスト、マルティン・シュタットフェルト(1980年コブレンツ生まれ)が東京・すみだトリフォニーホールの「グレイト・ピアニスト・シリーズ2018」に招かれて11月25日、日本で久しぶりのリサイタルを開いた。18世紀のJ・S・バッハと19世紀のショパン、2人の作曲家が軸のプログラムを装いながら、シュタットフェルトの眼は音楽の「調性」という1つの主役に注がれ、自作も交えながら、私たちが今聴いている音楽の源流とは何なのかを、ひたすら探り続ける。


前半ではバッハの「ゴルトベルク変奏曲」の「最初の8つの低音主題による14のカノン」BWV(バッハ作品番号)1087からの「3つのカノン」(カノン12=二重カノン、カノン13=6声の3重カノン、カノン14=拡大と縮小による4声のカノン)を弾いた後、ソニーからの新譜のメインに収められた自作、「バッハへのオマージュ〜ピアノための12の小品」を日本初演。後半はショパンの「24の練習曲集(作品10と25)」の要所要所(プログラムの記載では10箇所)にシュタットフェルトの即興演奏を挿入した音の絵巻物。アンコールは同じ新譜から、シュタットフェルト編曲の「シャコンヌ」(無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番BWV1004第5楽章が原曲)。午後3時開演、5時半終演だった。


2003年、ドイツ・ライプツィヒのバッハ音楽祭に大阪の日本テレマン協会が招かれ、通訳と取材を兼ねて同行した折、空き時間にたまたま、前年のライプツィヒ国際バッハ・コンクールのピアノ部門優勝者の記念リサイタルを聴く機会を授かった。ひょろっと長身の若者がすごく個性的なピアノを弾いた、くらいの記憶が残っている。翌年にドイツを再訪する際、機内で週刊誌「シュピーゲル」を読んでいたら「東西ドイツ統一後、バッハ・コンクールで初めてのドイツ人優勝者となったシュタットフェルトが自主制作した《ゴルトベルク変奏曲》の音源をソニーに持ち込んだところ、デビューが決まり、瞬く間にドイツのクラシックCDチャートの1位に躍り出た」という記事に目が止まり、「あっ、あの青年だ!」と思い出した。ドイツ到着後ただちにCDを買い求め、日本盤が出る前に記事化することができた。日本デビューは2006年のすみだトリフォニーホール。「ゴルトベルク」を弾いた。



ソニーの最新盤「バッハへのオマージュ」

シュタットフェルトの演奏スタイルは年々歳々、個性の度を増している。演奏姿勢も次第に椅子が低くなり、長身をかがめるように低い位置を保ち、鍵盤にすがるように弾く。ペダルは控えめなのに、驚異的に幅広いダイナミックレンジ、美しく浸透する音色を駆使できる。奏法だけではない。演奏解釈、いや解釈といった生易しい行為を超えた「創造と破壊の同時進行」ともいえるアプローチは楽曲の構造を鋭く解体し、背後に潜む音楽史の源流まで一気に遡ろうとする気迫に満ちている。会場で出くわした「ゴルトベルク変奏曲」のスペシャリスト、髙橋望さん(ピアニスト)は「バッハが現在に連なる調性を整えた改革者だとすると、シュタットフェルトはバッハ以前にヨーロッパ各地で別々に存在した様々な旋法の痕跡をバッハを解剖しながら明るみに出し、バッハの偉業に別の角度から光を当てようとしているのではないでしょうか? 《12の小品》の最後のコラールに〝ロ調〟という極めて古い調性が与えられているのが、その証拠の1つに思えます」と、演奏者の意図を読んでいた。


後半のショパンはもはや、マウリツィオ・ポリーニ全盛期の伝説的名盤(ドイッチェ・グラモフォン)に代表される「エチュード」の凄絶な世界を完全に離脱していて、全く別の音楽に触れる驚きに溢れていた。ショパンが19世紀の作曲家では最も深くバッハに傾倒、ロマン派の仮面の背後に左手の通奏低音的機能、祈りの象徴であるコラール(賛美歌)から発想した旋律や和声の構造などが隠されていることは案外、見落とされがちな側面である。シュタットフェルトのインプロヴィゼーションは触媒や造影剤のように、ショパンに潜むバッハの音像、作曲理論を一気に明るみへと引っ張り出し、エチュードを全く別の音楽作品として再生させる役割を担う。「別れの歌」(作品10の3)「革命」(同12)といったロマン派的な標題性には敢えて全く関心を払わず、ショパンの骨格だけをえぐり出し、それが紛れもなくバッハはもちろん、さらに前のヨーロッパ音楽から生まれ出た太い流れの上に生成した音の生命体である実態を解き明かす。「こんなの、ショパンじゃない!」と反発する聴き手が少なからず存在することは百も承知の上、シュタットフェルトは自らが信じる「音楽の時間」だけを頼りに、バッハやショパンと向き合っている。意志強固な男である。


アンコールの「シャコンヌ」でもブゾーニが代表する拡大志向の編曲に背を向け、バッハの最初の妻マリア・バルバラ(長丁場の疲れで記憶がクランチしたのか、アンコールを英語で説明するとき、後妻のアンナ・マグダレーナの名前を口走っていたが、楽曲の成立年代からしてもマリア・バルバラが正解だと思う)の急死を受けた「ラメント(哀悼歌)の意味を持つ伏線がいくつも敷かれた楽曲」という最近の学説に沿った響きに徹して再現した。CD冒頭にも入っているが、囁く鈴のような最弱音の美しさは実演ならではのもの。舞台を下りれば相変わらず物静かな好青年なのだが、再現芸術のあり方自体に巨大な疑問符を投げかける演奏姿勢は過激極まりない。そのコントラストもまた、シュタットフェルトの魅力だろう。

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