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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

オーケストラ・ニッポニカの「松村禎三交響作品展」、よみがえる情念の渦たち


感染症対策で定員50%設定の全席が完売

日本人を中心とする交響楽作品を継続して紹介してきた「芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ」の第38回演奏会(2021年7月18日、紀尾井ホール)は、松村禎三(1929ー2007)の「交響作品展」。1973年の「ピアノ協奏曲第1番」(独奏=渡邉康雄)と2002/2005年の「ゲッセマネの夜に」、1965年の「交響曲第1番」と作曲時期の異なる3作をニッポニカのミュージックアドヴァイザー、野平一郎の指揮で演奏した。コンサートマスターは高木和弘。


私と松村作品の出会いは1978年5月31日、東京文化会館第ホールで開かれた第4回民音現代作曲音楽祭。野島稔の独奏、尾高忠明指揮東京フィルハーモニー交響楽団が世界初演した民音委嘱新作の「ピアノ協奏曲第2番」だった。独特の死生観をうかがわせる響きの渦が延々と旋回する集中力に驚き、当時19歳の私も「すごい作曲家だ」と理解した。同年11月15日に田中信昭指揮東京混声合唱団が第78回定期演奏会(日本教育会館)で世界初演した東混委嘱の新作合唱曲「暁の賛歌」も翌1979年8月1日、第10回(1978年度)サントリー音楽賞受賞記念演奏会東京公演第2夜(旧日本青年館ホール)の再演を聴くことがかない、管弦楽と声の違いを超えて貫かれる強い個性を確認した。「ピアノ協奏曲第2番」は第27回(1979年)尾高賞(松村にとって2度目)を授かった。1978年は東京藝術大学音楽学部作曲科の助教授から教授に昇任した年でもあり、心技体の充実と社会的評価の頂点を極めていたと思われる。1980年頃から作曲に取りかかった遠藤周作の小説に基づくオペラ「沈黙」(サントリー音楽財団委嘱)は円熟期を代表するライフワークとなり、10年以上を費やした末の1993年11月4日に日生劇場で世界初演。1978年を上回る勢いで数多くの音楽賞、芸術賞、栄誉賞を受けている。初演前後の取材を通じ、個人的にも知り合うことができた。


「第2番」と同じく野島稔に献呈された「ピアノ協奏曲第1番」(1973年11月4日に野島のピアノと岩城宏之指揮NHK交響楽団のラジオ放送で世界初演)の実演を聴くのは初めてだった。渡邉康雄は元々作曲家志望だった上、父の日本フィルハーモニー交響楽団創立指揮者・渡邉曉雄は「日本フィル・シリーズ」を立ち上げ、日本人作曲家への委嘱新作を継続的に初演していた。後半の「交響曲第1番」も同シリーズ第14作として、1965年6月15日の同フィル第102回定期演奏会(東京文化会館第ホール)で曉雄が初演指揮した作品だ。野島が演奏活動の一線から退いた現在、渡邉康雄という人選は最も理に適ったものといえた。冒頭のピアノのソロを聴いただけでもう、並々ならない熱意と集中力が伝わり、最後まで一気に聴かせた。松村は「大地からたちのぼる自然なうたでありたいと思いつづけて、この曲を書きました・そして近来失われがちな音楽の本来的な豊穣さを再び回復できればと念願してこの曲に力を尽くしました」(プログラムに引用された「昭和48年度NHK芸術祭ラジオ部門音楽の部」放送台本)と自らの作曲イメージを記したが、高度の作曲技法を備えながら、ひたすらオーガニックな歌心を感じさせる点で「言葉に偽りなし」だった。野平の指揮は精緻を極め、松村のスコアから千変万化する響きを立ち上らせる。渡邉から終演後に届いたメールにも「野平氏の非常に深い洞察力豊かな音楽作りに心から共鳴し、名曲を本当の心に浸みる音楽として表現したいという気持ちが伝わったのかな、との後味を持ち帰りました」とあった。アンコールは「ギリシャによせる2つの子守歌」(1969)の第2番「レント」。


最晩年の作品「ゲッセマネの夜に」はオーケストラ・アンサンブル金沢の委嘱作、2002年9月8日(石川県立音楽堂コンサートホール)に岩城宏之の指揮で初演した。ジョットの名画「ユダの接吻」の「複製を見ながら書いた」作品だが、私は「イエスの透徹した眼差しを描いた」という作曲家の意図とは全く別の角度から、松村の恩師の1人である伊福部昭の日本的土俗の世界への接近というか帰依を意識しながら聴いていた。これに対し36歳の松村が書いた「交響曲第1番」はインドの世界文化遺産「カジュラホー寺院群」の「小さい生命ともいうべき有機的なものが群れをなして、一つの大きなフォルムを形づくっていくいうあり方」「イナゴの大群が一つの方向に向かって雲のように大地を席巻して移動するような、そういうあり方」の「スケール大きく、エネルギッシュな音楽」を志向し、まったく感触を異にする。ピアノやハープ、様々な打楽器がエスニックなアジアン・テイストを強調し、若い作曲家のギラついた野心を感じさせるのが好ましい。肺結核で東京芸大受験に失敗、清瀬のサナトリウム(療養所)での独学から身を起こし、俳句にも目覚めた作曲家は生と死の両方にリアルな親近感を抱き、此岸と彼岸を往来する情念の渦の中に身を置いていた。その深い「沼」にハマってしまった聴き手は2度と、松村の音楽世界から逃れることができない。野平とニッポニカの渾身の演奏は、その「情念の渦の魔力」を余すところなく再現していた。



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