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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

「湾生」の竹中信子さん(90)とリアルで話した!〜映画祭《中国を知る》


2020年12月12日、東京・渋谷のユーロスペース事務所で

日本統治下(1895ー1945年)の台湾で生まれ育った日本人、「湾生」の存在を知ったのは3年前の2018年夏。日本と台湾で演奏するセミプロのフルート奏者、五島章太郎さんの取り持つご縁で映画「心の故郷〜ある湾生の歩んできた道〜」(林雅行監督=2018年クリエイティブ21)の試写会に出かけ、主要登場人物の1人である武石道男さんと言葉を交わした時だった。林監督へのインタビューを交え、映画を紹介する記事も当時「日経電子版」のライフ無料セクション「NIKKEI STYLE」向けに書き、現在も公開している:


もう一人の主要人物、ピアノ教師の竹中信子さんとの面会は積年の懸案だった。ついに2020年12月12日、渋谷のユーロスペースで実現した。日本大学芸術学部映画ビジネスゼミ3年生による「日藝映画祭」10回目の節目、「中国を知る」というテーマの下に中国、台湾、香港、日本の15作品を7日間に上演する意欲的な企画の初日。竹中さんは黄銘生(ホァン・ミンチェン)監督による2015年の台湾映画「湾生回家」の上映後トークに出演、さらに別室でのインタビューを快く引き受けて下さった。90歳の年齢を感じさせない記憶と滑舌の確かさ、若い世代に語り継ぐ使命感の強さに圧倒されつつの一問一答を再現する:


ーー湾生になった背景は?

「祖父が軍関係者として台湾に渡り蘇澳(すおう)に土着、私の両親からして、すでに湾生だったのです。〝植民地〟という構造的差別社会だったはずでしたが、戦争の時代、日本と台湾の人々が一丸となって助け合ったこともあり、私たち湾生には日本へ引き揚げるまで、その意識がなかったし、教えられもしなかったのです」


ーー当時の台湾社会の状況を教えてください。

「日本の15倍くらいの異民族が存在、多様性に富む多民族社会でした。日本人の職業は偏っていて官吏か糖業(製糖)関係が大半、残りは農漁業、商業です。蘇澳は港湾都市なので珍しく、四国や九州から移ってきた漁民が目立ちました。商業は中小規模、ほとんどが日本人相手だったと思います。湾生、台湾人の別なく高学歴で大学進学率は高く、海外留学や洋行も頻繁でした。物産と気候に恵まれた豊かな社会で雪は降らず、冬服も不要。日本人家庭の多くは現地のお手伝いさんを雇っていたため、終戦後に本土へ引き揚げる際は、女性の方が『残りたい』と思ったそうです」


ーー引き揚げでは苦労なさいましたか?

「旧満州(現在の中国東北部)や朝鮮半島からの引き揚げに比べ、台湾の人々は気持ちよく送り出してくれたと思います。支配者=日本の敗戦を受けた植民地解放に伴う嫌がらせが皆無だったとは言いませんが、早々に影を潜めました。外地に根を下ろしていた私たちは終戦で根っこごと引き抜かれたわけですから、むしろ引き揚げ後の苦労が多く、必死で生きざるを得なかったのです。だいたい湾生というアイデンティティーが全く認識されず、運命自体が一度挫折したところからの戦後でした。私と一緒に女学校へ電車通学していた仲間3人も1人は東京駅で靴磨き、1人は進駐軍のダンサーとして青い目の子どもを3人産み、1人は郵便局につとめて職場結婚・出産…とばらばら。母子家庭の私たちは門司港(福岡県)に引き揚げ、母は朝昼晩に違う仕事をして子どもたちを学校へ通わせました。湾生の運命は一変したものの、皆とりあえず、人並みに生き延びてきたといえます」


ーーだからこそ、湾生の〝語り部〟を自負される?

「私たちには多くの仲間がいるのに、内地では湾生のことなど当然、まるで語られていません。台湾協会(一般社団法人)の内部ですら、話題に上ることはまれでした。だけど、私のアイデンティティーは明らかに台湾にあり、心情は長い間、揺れてきました。テレビや新聞のニュースで台風情報が流れても、〝台〟の1文字に心が躍ってしまうのです。2000年代になって自由な往来が再開されて以降、だいたい年2回、もう50回近く台湾に出かけましたが、それまで20ー30年の空白や音信不通がうそみたいに絆がよみがえり、大昔の出来事が昨日のように思い出されます。台湾の友人たちから来る日本語の手紙は、今の日本人よりも上手で、『心の友』と書かれた際は『本当にそうだ』と思いました。高齢化で日増しに体力が衰えていくなか、せめて湾生仲間だけでも交流を続けようと同窓会を組織し、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が拡大する前までは年2回、集まってきました。『もし声がかかったら、かけられた人が湾生の話をしようね』などと、内輪で語り合っていたところに映画の話が持ち込まれ、びっくりです。湾生自身、1つの映画の題材になるなんて、思ってもみなかったので大喜び、積極的に語り出しました」


ーー日本人、台湾人それぞれの監督が湾生を扱い、今回は台湾の作品が再上映されたわけですが、竹中さんは台湾での上映会に参加、現地の若い世代とも交流されたそうですね。

「台湾では若い人々が観にきて、私たちに『日本のおじいちゃん、おばあちゃん、お帰りなさい!』と声をかけてくれました。ずうっと泣いている子もいます。昔住んでいただけでなぜ、こんなにも愛してくれるのか? 私たちも胸が熱くなりました」


日本の若い世代も同じように反応するとは思えないなか、日大芸術学部の現役学生が湾生に目を向け、竹中さんをトークに引っ張り出した発想自体が画期的だった。公演プログラムに「中国、台湾、香港、私たちは目を背けない」と副題を記し、武漢を起源とするCOVID-19や中国政府の香港支配強化などで揺れた2020年の最後、こうした「理解中国」の映画祭を実現した若者たちの行動力と竹中さんのパワーに、一抹の希望を託せたのは幸いだった。

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