• 池田卓夫 Takuo Ikeda

鈴木優人指揮BCJ、受難節の「マタイ」


バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)が長く復活祭(イースター)前の受難節に演奏してきたJ・S・バッハ「マタイ受難曲」は創立者で音楽監督の鈴木雅明が指揮してきた。昨年は新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的拡大で春の開催を断念、「真夏のマタイ」の例外的措置で演奏活動を再開した。今年はイースターに戻ってきたが、会場は改修中の東京オペラシティコンサートホールではなくサントリーホール、「首席指揮者」のポストにある息子の鈴木優人の手に初めて委ねられた。雅明はプログラムに「もう世代交代などという弁解は不要ですが、BCJのマタイを聴く、という初体験に、今わくわくしています」と記した。私はBCJがスウェーデン「BIS」レーベルで「カンタータ全集」の録音を始めるのに先立って世界規模の演奏活動に弾みをつけ、日本の演奏団体と指揮者によるバッハ解釈の存在意義(レゾンデートル)を大胆に問い始めた1995年ころ、オペラシティだけでなく彩の国さいたま芸術劇場、千葉県の佐倉市民音楽ホールを合わせた3会場で「マタイ」を3日続けて聴き、熱い支持を受ける理由を探る記事にまとめたことがある。それ以前のドイツ駐在時代はイースター前の時期、アマチュア合唱団が落涙しながら歌い上げる大編成の「マタイ」を聴くのが習慣だった。


当時のBCJの「マタイ」は、急激に安定してきたピリオド楽器の演奏水準と磨き抜かれた合唱、国際色豊かな独唱者を組み合わせ、世界標準(グローバルスタンダード)を難なくクリアする一方、大海へと漕ぎ出す鈴木の気迫が激しい高揚をもたらし、聴く者を惹きつけた。四半世紀を経て演奏スタイルが円熟の丸みを帯びるなか、日本人ソリストの比重が高まり、器楽チームの世代交代も進んだ。コロナ禍で外国人演奏家が来日できなくなって以降、加耒徹、加藤宏隆(以上バス)、久保紀之(アルト=カウンターテナー)、森麻季(ソプラノ)ら新しい世代のソリスト、長くオペラの世界のスターだったにもかかわらず、実は宗教音楽のソロに優れた適性を備えた歌手たちが前面に出てきて、目覚ましい成果を上げている。


痛風の苦痛と闘いながら傑出した福音史家(エヴァンゲリスト)像を打ち立てた櫻田亮(テノール)は、青木洋也(アルト)や谷口洋介(テノール)らとともにBCJ独唱者の新旧両世代をつなぐ要であり、重責を果たす以上の存在感をみせた。櫻田が東京二期会の「チェネレントラ(シンデレラ)」で王子ラミロ役を歌い、ロッシーニ・テノールとしてのポテンシャル(潜在能力)を示した時代が、遠い昔に思えた。加耒は二期会でも新進のスター歌手だが、この2か月あまりでモーツァルト「フィガロの結婚」題名役、「レ・ミゼラブル」のマリウス、「マタイ」のイエスを適確に再現し分け底知れない可能性を知らしめた。森は後輩格のソプラノたちがソロを立派に歌いおおせる度に優しく微笑みかけ、大きな心のゆとりとともに安定した歌を聴かせた。彼らも加わった合唱の完成度は、説明の必要がないほどだ。


若松夏美がコンサートマスター、大塚直哉がオルガンを担当した第1群、髙田あずみと今井奈緒子の第2群のオーケストラのアンサンブルも緊密。オーボエの三宮正満、フラウト・トラヴェルソの前田りり子らベテランの域に達した顔ぶれに後継世代がちらほら加わり、次代への備えも万全とみた。


そして、彼らを束ねる鈴木優人の素晴らしさ!〝世襲〟〝二世〟などという陳腐な言葉を寄せ付けない独自の個性をすでに確立しており、生まれ育ったオランダと日本の両方で音楽教育を受け、演奏と指揮、作曲の多方面で活躍するマルチタレントの持ち味は、父の雅明と、かなり趣を異にする。1990年代の雅明がみせた気負いのようなものは消え失せ、「えっ、《マタイ》ってこんなに柔らかく、親しみやすい作品だったっけ?」と思わせるほどの自然体、脱力に驚く。無理のない指揮でオーケストラ、合唱、ソロのポテンシャルをゆっくりと全開まで引き出す一方、ドラマトゥルギー(作劇術)のツボは外さず、大きなクライマックスを築く。「バッハも生身の人間だった」「隣のおじさんみたいにフレンドリー」と思わせる親しみやすさ、庶民的たたずまいが300年前(1727年)のドイツに生まれた作品と現代の日本人との距離をとことん縮め、より身近で生々しい音楽として再現されていく。「キリスト教会の宗教音楽」の峻厳な扉が世界のあらゆる人々に向かって開かれ、普遍の物語として語られるとき、私たちは「マタイ」のメッセージの数々に、時を超えた警鐘も発見する。あれほど真剣に信仰する群衆がデマに惑わされ、いとも簡単に人間を処刑に追い込む危険、状況に応じて証言をくるくる変える様は今、私たちがリアルに体験している世界でもある。


ソフトなパワーでリアルな世界を斬る!ーー鈴木優人とBCJの「マタイ受難曲」は来年の受難節以降も末長く人々を魅了し、日本が世界に誇る文化力の一端を担っていくはずだ。

(2021年4月3日、サントリーホール)

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