1961年ザルツブルク生まれのオーストリア人ヴァイオリニスト、トーマス・ツェートマイヤーはかなり早い時期から指揮にも進出、2016年からスイスのムジークコレギウム・ヴィンタートゥーアの首席指揮者を務めている。ヴィンタートゥーアはスイス・チューリヒの北東、電車で18分の距離にあるチューリヒ州の基礎自治体で人口約10万人。総人口855万人あまりのスイスでは、6番目の大都市に当たる。起源はローマ時代に遡り、街の成立は1175年とスイスの建国(1291年)よりも古い。ムジークコレギウムの設立も1629年、390年の歴史を誇る名門音楽団体だ。私たち昭和世代の音楽ファンにはヘンリク・シェリングが独奏と指揮を兼ねて1965年5月、フィリップス(現デッカ=ユニバーサル)に録音したJ・S・バッハ「ヴァイオリン協奏曲集」の歴史的名盤を通じ、記憶に残る名称だろう。
2019年10月28日、トッパンホールでのムジークコレギウム・ヴィンタートゥーア。ドイツ・カンマー・フィルハーモニーやグスタフ・マーラー・チェンバー・オーケストラなど、20世紀末に誕生したドイツ語圏の中規模オーケストラに比べると、楽員の世代分散は幅広く(第1ヴァイオリン、ヴィオラ、ティンパニの計3人、日本人女性奏者がいる)、ピリオド奏法を前面に掲げることもないのだが、合奏能力は高く、ティンバニは古典タイプを採用するなど、適切な様式感も備えている。前半、ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」冒頭のティンパニの軽く、乾いた響きに触れた瞬間、奏者Kanae Yamamoto(漢字は調べがつかなかった)の鮮やかな表現力に耳を奪われた。クリスティアン・テッツラフの新譜(ロビン・ティチアーティ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団と共演)国内盤のライナーノートを書く際、原盤に載ったインタビューの中で、テッツラフが「冒頭のティンパニが提示する軍隊行進曲風のリズムが、全曲の基盤をつくっている」と指摘、第1楽章でティンパニのオブリガートを伴うカデンツァ(ヴァイオリン協奏曲をピアノ独奏版に編曲したときに作曲した、ベートーヴェン自身によるこの曲唯一のカデンツァ)を基準に考えている理由を説明していた。ティンパニは、それほどまでに重要な役割を与えられているのである。
ツェートマイヤーの独奏は絶好調とは言い難かったが、フランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラとの名盤(フィリップス=1997年録音)が立証するように、かなり早い時点から様々なアプローチを実践してきた蓄積を生かし、楽曲の音像を現代に生々しく再現する姿勢に徹していた。第1楽章はもちろん、第2〜3楽章への移行部でのカデンツァの切り込みには、鬼気迫るものがあった。休憩時間、私の後ろを歩いていた男性客が「いやあ驚いたよ、ベートーヴェンがロックに聴こえるなんて、思いもしなかった」と、率直な感想を漏らしていて、その気持ちも理解はできる。だがアンコールに弾いたB・A・ツィンマーマンのビターな作品から逆算して一段と鮮明に浮かび上がるのは、ツェートマイヤーがデウス(神)の崇高な精神や喜び、勇壮さを担う「ニ長調」の調性の〝神話〟に敢然と反旗を翻し、軍隊の行進に抵抗する民衆の自由の叫びとして、楽曲を根底から作り直そうと悪戦苦闘していたのではないか?、という疑念。私が演奏に感心しながらも終始抱いていた違和感は、ツェートマイヤーの激しい挑発精神に起因したものではないかと思えてきた。
挑発と創造、破壊が芸術の根源に位置する崇高な行為の連鎖であること自体に、疑いを挟む余地はない。だが陽気で調和のとれたアポロ的調性とされる、「ハ長調」で書かれたモーツァルトの最後の交響曲「第41番《ジュピター》」に対してまで同様の〝逆転の発想〟が持ち込まれると、「化石のような評論家」(今年の8月、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団の日本人ファゴット奏者から頂戴した私へのコメント)は違和感を通り越し、困惑するしかなかった。作曲家と同じ街に生まれ、10代でレオポルド・ハーガー指揮モーツァルテウム管とモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全集を録音(テレフンケン=現ワーナー)、2007年にはオーストリア・シュタイヤーマルク州から「カール・ベーム解釈賞」を授かるなど、ヴァイオリニストとしてのツェートマイヤーは早くから、モーツァルト解釈の第一人者と目されてきた。指揮者としてはその自分をも「挑発」と「破壊」の対象に見做し、「ジュピター」をかくも激しい強弱の音楽に書き換えようとしたのだろうか?
確かに12年後に初演されたベートーヴェンの「交響曲第1番」を飛び越し「第3番《英雄》」(1804)の世界に直結した、モーツァルト最後の破格の交響曲の再現手段では「あり得る」選択肢の1つなのかもしれない。残るは再現精度の問題であり、あまりに激しい表現意欲が「省察」あるいは「自己点検」のゆとりまで、削ぎ落としてしまった。集中したピアニシモから豊富なメゾフォルテのゾーンのニュアンス、最後に「ここぞ」という瞬間だけに現れるフォルテシモという音色と音量のグラデーションを欠き、「0」と「1」のデジタルな繰り返しに終始した展開は、ふくよかな「ジュピター」を求める耳にはつらかった。
アンコールはハイドンの「交響曲第49番へ短調《ラ・パッショーネ(受難)》」(1768)から第4楽章(フィナーレ)プレスト。まさか「ジュピター」で私が個人的に受けた〝受難〟の埋め合わせかと思ったりもしたが、この演奏は文句なしに良かった。無理な力が抜けて闊達さが蘇り、音のグラデーションも鮮やかに決まり、モーツァルトとの比較で過少に評価されがちなハイドンの偉大さ、発想の斬新さを存分に味わせてくれる手腕こそ、名コンビの真価なのだと納得した。
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