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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

藤沢市民オペラのロッシーニ「湖上の美人」日本初演、豪華キャストで大成功!


ジョアキーノ・ロッシーニ(1792ー1868)とフランツ・シューベルト(1797−1828)。年齢こそ5歳違いだが、ロッシーニは美食過多の肥満体にもかかわらず、シューベルトの2倍以上長生きした。ロッシーニのオペラがウィーンでも人気を博すと、オペラで一度も成功したことがないシューベルトは気分を害し、交響曲第6番の第4楽章にロッシーニを皮肉る楽想を取り込んだ。逆に、ロッシーニの歌曲への評価は「歌曲王」と呼ばれたシューベルトに劣後する。スコットランドの詩人&作家ウォルター・スコット(1771ー1832)の叙事詩「湖上の美人(The Lady of the Lake)」(1810)に対し、ロッシーニがイタリア語オペラ「湖上の美人(La donna del lago)」(1819)を、シューベルトが3曲からなる連作ドイツ語歌曲「エレンの歌(Ellens Gesang)」(1825)を、それぞれ作曲したのは当然の帰結だった。後者の第3番は歌詞の一部をとって「アヴェ・マリア」の愛称で名曲中の名曲となり、日本でも明治時代から歌われてきた。ロッシーニのオペラの方は「セビリアの理髪師」「チェネレントラ(シンデレラ)」のブッファ(喜劇)の受容と人気が先行し、「セミラーミデ」「湖上の美人」などのセリア(正しい=真面目な歌劇)は後回しにされてきた。だが「湖上の美人」に耳を傾ければ、シューベルトの「アヴェ・マリア」に匹敵する旋律美の世界がダイナミックなドラマを伴って展開、永遠のライヴァル関係の面目が躍如としている。ともに200年前後、不朽の価値を保ち続けてきた。


1973年に始まった地域オペラの草分け、藤沢市民オペラ(神奈川県藤沢市)は指揮者の園田隆一郎を芸術監督に迎えた翌年の2015年から3年単位のシーズン制(招聘公演→演奏会形式上演→市民オペラ)に移行、2016年の演奏会形式上演で「セミラーミデ」を日本初演した。園田にとって第2シーズンの2年目、2019年は引き続きロッシーニをとり上げ、奇しくも初演200年と重なった「湖上の美人」の演奏会形式日本初演(12月1日、藤沢市民会館大ホール)を実現した。演奏会形式の際のナビゲーターは一貫してアナウンサーの朝岡聡が務めるが、日本ロッシーニ協会副会長の顔も持つだけに、あらすじは生き生きと伝わる。


ロッシーニ研究の世界的権威で、作曲家の生地ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルを切り盛りしていたイタリアの指揮者アルベルト・ゼッダ(1928ー2017)の薫陶を受けた園田はロッシーニのセリア紹介をライフワークの一つに挙げるだけに、アマチュアのオーケストラ(藤沢市民交響楽団、コンサートマスターはプロ奏者の平澤仁)、コーラス(藤沢市合唱連盟、浅野深雪指揮)が「レアもの」初演作品を演奏するという至難な課題にも果敢に挑み、かなりの成果を上げた。11月の日生劇場「トスカ」(プッチーニ)で指摘した「配慮の行き届き過ぎた指揮」の傾向が全くないわけではないが、それがアマチュアの演奏をきれいに整え、プロの歌を見事に支えていた点では今回、プラスに働いた。


キャストのMVPはヒロインのエレナ(エレンのイタリア語呼称)を愛する反乱軍の騎士、ロッシーニがコントラルト(女性の最も低い声)の「ズボン役」に振ったマルコムを歌った二期会のメゾソプラノ、中島郁子である。発音明瞭、上から下まで(特に低音の支え!)ムラなく艶やかに発される美声、没入度の高い歌唱と深い心理描写のすべてにおいて、ロッシーニのセリア解釈者としての傑出した資質を全開にした。前の「セミラーミデ」の時も光っていたし、二期会「ノルマ」(ベッリーニ)のアダルジーザ、新国立劇場「蝶々夫人」(プッチーニ)のスズキなど守備範囲も広く、今やオーケストラのソリストでも引っ張りだこだ。


次いでは2人の「Mr.ハイC」、騎士ウベルトに変装してエレナに一目惚れしてしまう国王ジャコモ(ジェームズ)5世の山本康寛と、エレナの父が勝手に許嫁と決めたがゆえに苦悩する反逆派の首領ロドリーゴの小堀勇介が素晴らしかった。ともにペーザロ出演経験を持つベルカントテノールで、琵琶湖ホール声楽アンサンブル出身の山本が藤原歌劇団、私がプロデューサーとして「福島3大テノール」の企画に招いたこともある小堀は目下、フリーランスで頑張っている。テクニックで大胆に切り込む小堀に対し、山本は繊細な内面の表現に秀で、全く異なる持ち味の2人の最高音が重なる瞬間、ロッシーニの音楽が一段と光り輝く醍醐味を味わえた。小堀は国内の仕事が切れ目なく入っている裏返しか、声さばきの運動性が少し重たくなったような気もした。大器だけに、くれぐれも慎重に歩みを進めてほしい。


エレナの父ダグラスの妻屋秀和(バス)はいつも通りの安定感、エレナの友人アルビーナの石田滉(メゾソプラノ)の可憐さ、ダグラスの配下セラーノでイタリア仕込みの名バイプレーヤー流儀に徹した渡辺康(テノール)もそれぞれの役柄に、確かな存在感をもたらした。


最大の期待を担いながら、とても残念なことに、いくつかの問題を露呈したのはヒロイン・エレナ役の森谷真里(ソプラノ)だった。今年だけでも二期会でドイツ語の「サロメ」(R・シュトラウス)、イタリア語の「蝶々夫人」(プッチーニ)と急激に重たい声の役に、しかも日程を接して取り組んだ結果、メトロポリタン歌劇場やリンツ州立歌劇場、さらに二期会の「魔笛」(モーツァルト)の夜の女王役で鮮やかなコロラトゥーラのテクニックを披露し、一躍注目を浴びた時期とは明らかに異なる発声のポジションに移行していて、アジリタ(装飾音型)が精確に回りにくい。たびたびの出番で他の出演者に比べ、少なくとも視覚的には「楽譜首っ引き」の感が強く、時々ヒヤッとさせたのは多忙の裏返しか、作品の難易度の高さか、にわかに判定しかねるが、「座長」としての安定感に不足したことだけは確かだ。優れたプリマドンナの力量は、エレナによる大詰めのロンド=フィナーレ「胸の思いは満ち溢れ」の傑出した歌唱(ここではアジリタの再現能力も大きく改善していた)が立証しており、願わくは、この水準で全曲完走してほしかった。2020年も、びわ湖ホール「神々の黄昏」(ワーグナー)のグートルーネ、日生劇場「ランメルモールのルチア」(ドニゼッティ)題名役とハードなラリーを続ける予定だが、余計な心配の一つもしたくなる。


忘れてはならない。今日の午後、何よりも輝いていたのはロッシーニの音楽だった。その素晴らしい音楽を日本人演奏家だけで、これほど見事に再現できる時代が到来したことも、素直に喜びたい。次に「湖上の美人」に出会うときはぜひ国内の舞台上演で、と切に願う。

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