在日コリアンで南北朝鮮に公演実績のあるソプラノ歌手、田月仙(チョン・ウォルソン)が2020年10月25日、「海を越えて」と題したガラ・コンサートを日本橋公会堂で行った。ウォルソンが企画・プロデュース・構成・演出も自身で手がけ、ナレーション(中谷恵子)を交え、ストーリー性を持たせたステージはすでにおなじみだ。今回は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)対策を踏まえ、休憩なし75分のサイズ、1席おきの着席といった特別な措置を講じた。共演はテノールの高野二郎、バレエダンサーの相沢康平。ピアニストは当初予定の佐藤祐介から富永峻に替わった。高齢者中心の客層、目立たない場所にあるホール、不慣れなソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)、演出でほぼ真っ暗な客席などの条件が重なり、客席のざわつきは開演後もしばらく続き、遅刻入場者が暗闇で転倒、「痛いっ!」と叫んだ声が1曲目のピアノソロ、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第14番《月光》」第1楽章で〝効果音〟に加わるハプニングがあった。舞台照明の効果が、客席誘導で懐中電灯代わりに使うiPhoneのライトで削がれる場面も何度か。出演者側にも、それぞれ最初の出番では反応を手探りするような感触が従来のステージより目立つ。こうした不確定要素のすべてが、COVID-19の先行きが全く不透明な中で活動を再開、試行錯誤を続けるアーティストと観客の置かれた状況を生々しく物語っている。上演の「一回性」に照らせば目くじらを立てず、2020年10月の光景として記憶にとどめるべき事象だ。
ヨーロッパの歌曲、ミュージカルナンバー、ピアノソロ(1曲はダンスとのコラボ)、ウォルソンのライフワークであるオペラ「ザ・ラストクイーン 朝鮮王朝最後の皇太子妃」からのアリア「あなたと一緒に」(ダンス入り)、日本と韓国の懐かしい歌、最後はウォルソンがショパンの「練習曲集作品10」の「第3番《別れの曲》」に新たな日本語詞を書き下ろした「さよなら恋人よ」。アンコールはない代わり、出演者全員が舞台に現れ、ウォルソンと高野が挨拶をして、しめた。南北朝鮮の統一を願うくだりで30年前のドイツ統一を引き合いに出し「東ドイツと北ドイツ」とすべったときは一瞬、「あれっ?」と思った。
久しぶりに聴くウォルソンの声は相変わらず響きが深く豊かで、やや大きくかかるヴィブラートも含め、人間の情念の深いところに降りていく。とりわけ「ザ・ラストクイーン」のアリア、コリア古謡「恨(はん)五百年」、「さよなら恋人よ」は胸に迫る絶唱だった。オペラや歌曲だけでなく、ミュージカルやポップスでも活躍する高野の歌は絶えず優しい微笑みをたたえ、聴く者を温かく包み込む。誰の真似でもない、彼自身の歌を聴かせる姿勢は素晴らしい。ミュージカル「ジキルとハイド」の「時が来た」で、エンジンが全開した。富永は急な依頼だったにもかかわらず、長年のウォルソンとの共演歴を背景に、安定した〝独りオーケストラ〟の能力を発揮する。ドビュッシー「喜びの島」では技巧の切れ、情熱の発露の両面で見事なソロを聴かせ、最近の充実を立証した。ダンサーの相澤も「ザ・ラストクイーン」初演以来「チーム・ウォルソン」の一員であり、ステージに動的な輝きを与えた。短いながら、こめられたメッセージの数も多く、十分に楽しめるコンサートに仕上がっていた。
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