• 池田卓夫 Takuo Ikeda

欧州古典音楽「日本化」について考えた広上&JPOと日生劇場《ラ・ボエーム》

更新日:6月13日


オペラのピットは新日本フィル

16世紀半のキリスト教伝来を第1波、19世紀半の明治維新を第2波、20世紀半の敗戦を第3波とすれば、日本人と西洋音楽の付き合いはミレニアム(千年紀)の半分に及び、かなりの土着化も進んだと考えるのが妥当だろう。2021年6月2度目の週末、東京都内で取材した2公演は1つがオーケストラの定期演奏会でチェコとオーストリアの管弦楽、もう1つはイタリアのオペラだったが、どちらもヨーロッパで接するのとは大きく異なる結果を残した。


1)日本フィルハーモニー交響楽団第731回定期演奏会(2021年6月11日、サントリーホール)

指揮=広上淳一、ヴァイオリン=小林美樹、コンサートマスター=扇谷泰朋

ドヴォルザーク「ヴァイオリン協奏曲」

ソリストアンコール:J.S. バッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番」よりラルゴ

ブルックナー「交響曲第6番」

メイン2曲は、ともに1883年の初演。崩壊寸前ではあったが、ドヴォルザークのボヘミア(現チェコ)、ブルックナーのオーストリアとも旧ハプスブルク帝国の構成単位だった。ハプスブルクの緩やかな支配、とりわけ文化の百花繚乱への寛容にはどこか、徳川幕府の手綱さばきに似ていると思わせるところがある。ボヘミアの民族舞曲と弦楽器文化を融合させ、深い郷愁をこめて歌い上げるドヴォルザーク。長く奏者を務めたザンクト・フローリアン大聖堂のパイプオルガンの響きを基調に天界から地上へと向かう空気、自然と人生への素朴な信仰を交響曲に記したブルックナー。2人の音楽の外観は極端に異なる半面、人工美を排除したナイーブな感触、やがて壊れ行く土着文化を克明に記録する使命感などで共通する。


定期初日(翌12日にもう1公演)の演奏で判定する限り、小林のソロも広上の指揮も「技」が先に立ってエッジ(輪郭)がきつくドヴォルザークのノスタルジーに浸りきる快感を味わえない。ヴァイオリニストはチャイコフスキーやパガニーニなどヴィルトゥオーゾ(名技)系コンチェルトとは全く異なる「情」の音楽という原点を、もう少し尊重してほしかった。アンコールのバッハは悪くなかったので、他にもっと向いた作品があるはずだと思う。広上の指揮もフォルテの音響ブロックをバコン、バコンと壁に打ちつける感じで情感に乏しい上、楽譜をめくる音がやかましく、タイムウォッチでセコンドを刻むような〝副作用〟を生んだのがまた、デリカシーのなさを助長した。熱気だけでは乗り切れない作品だ。


後半。広上のブルックナーを聴くのは初めてだった。昨年12月にセバスティアン・ヴァイグレ指揮の読売日本交響楽団が同じ「交響曲第6番」を演奏した時の14型(第1ヴァイオリン14人)にも驚いたが、今回の日本フィルは感染症対策を一段と徹底、10型のコンパクトな弦とフルサイズの金管という困難な課題にも挑んだ。弦楽器群の大健闘もあって、バランス自体は意外に良かった。最近の日本フィルの管楽器群は世代交代が進み、技術の安定以上に音のソノリティ、美しさが大きく改善しているので、それぞれソロの妙技も楽しめた。


広上の指揮も前半に比べれば格段に血が通い、新境地のブルックナーに賭ける思いは良く伝わってきた。とりわけ第2楽章のアダージョに漂ったしみじみ、内面的な味わいには(同い年なのであまり使いたくない言葉だが)老境に差しかかったマエストロの今の心理も反映されていて、胸に沁みた。問題は、第3楽章スケルツォから第4楽章フィナーレにかけての音楽だった。大聖堂のパイプオルガンが象徴する西洋音楽の強固な論理性や、信仰心を基盤にどこまでも愚直に石を積み上げるような素朴さに代わり、場面ごとの音響エフェクトや最先端のオーケストラ機能を追求する人工美が前面に出る。こうなるともう「好みの問題」だが、少なくとも私には「ブルックナーとは異質の何かを聴いた」との思いが拭えなかった。


ヴァイオリニストのピンカス・ズッカーマンが指揮活動を拡大し、フランクフルトでブルックナーの交響曲まで指揮すると知り、来日時にインタビューした際「大丈夫なの?」と尋ねた。「まるで問題なし。上がる音と下がる音しかないから」の答えに当時は唖然としたが、その後、あれこれ策を弄しては構築の崩れゆくブルックナー演奏に何度か辟易して、ズッカーマンのレトリックの真意を理解した。手練手管はブルックナーに全く相応しくないのだ。


2)ニッセイ名作シリーズ2021(NISSAY OPERA2021)プッチーニ「ラ・ボエーム」(6月12日、日生劇場)※宮本益光訳詞(および字幕)による日本語上演

指揮=園田隆一郎、演出=伊香修吾

ミミ=安藤赴美子(ソプラノ)、ロドルフォ=宮里直樹(テノール)、ムゼッタ=横前奈緒(ソプラノ)、マルチェッロ=今井俊輔(バリトン)、ショナール=北川辰彦(バスバリトン)、コッリーネ=デニス・ビシュニャ(バス)、ベノア=清水宏樹(バスバリトン)、アルチンドロ=小林由樹(バリトン)、パルピニョール=工藤翔陽(テノール)

合唱=C.ヴィレッジ・シンガーズ(指揮=水戸博之)、管弦楽=新日本フィルハーモニー交響楽団

2017年初演の「日本語ボエーム」の再演と思っていたら、ビジュアルが大きく変わっていて驚いた。日生劇場芸術参与で演出家の粟國淳によれば「4年前には存在しなかった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が蔓延するなか、ソーシャル・ディスタンシング(社会的距離の設定)を考慮する必要があり、『全く同じにはできない』との認識で新しくつくり直しました」とのこと。合唱団は舞台に出ない〝陰歌(かげうた)〟に徹し、第3幕の門番をショナールの北川、コッリーネのビシュニャが兼ね、卵と牛乳を運び込む婦人たちのマペットまで操る。最大の変更は人数を極端に絞った室内劇(カンマーシュピール)で全体を統一したこと。クリスマスのカフェ・モミュスの賑わいも、ムゼッタとマルチェッロが働く居酒屋前にある検問所の雪景色もすべて、臨終前後のミミの脳裏をよぎる記憶のフラッシュバックとして描かれるため、一貫して屋根裏部屋が舞台となる。第4幕の前半にもミミはムゼッタとともに存在、男たちのダンスの輪に加わる。オリジナルの序奏の前に名旋律を織り込んだポプリ(接続曲)を置き、プロローグを追加した点に関しては、観客の賛否が別れた。


賛否両論に関しては、そもそも日本語上演についての方がプロローグより、さらに喧しいだろう。日生劇場に初めて足を踏み入れたのは半世紀以上も前の小学生時代、劇団四季と組んで上演していた「ニッセイ名作劇場」のミュージカル「オズの魔法使い」の日本語上演だった。杉並区の学校からバスに乗り込んで到着した日生劇場は日比谷公園真向かいの1等地に建ち、村野藤吾設計の劇場空間は白い大理石と赤いカーペット、幻想的な雰囲気に包まれ、地元の公会堂や児童館とは異次元の夢が用意されていた。私の音楽劇への傾倒の原点だ。音楽劇との出会いがオペラではなくミュージカル、原語ではなく日本語という図式は51年後の今も、意外なほど変わりがないように思う。オペラの国内プロダクションすら、対訳字幕スーパーの登場までは日本語上演が主流だった。1997年に日本初の常設オペラハウスの新国立劇場がオープンした時、「新国立劇場の原語上演の演目を新宿駅を挟んで逆側に位置する新宿文化センターで同時に日本語上演してはどうか?」といった内容のコラムを書いたことがある。ドイツ語訳上演に徹するベルリンのコーミッシェ・オーパー、英語訳上演に徹するロンドンのイングリッシュ・ナショナル・オペラなどを念頭に置いての提案だった。


名作劇場の後継で、中高生対象の「ニッセイ名作シリーズ」も東京だけで6公演の無料招待があり同時期の2日間を一般向け「NISSAY OPERA」として販売する仕組みなので、基本はあくまで入門者向けといえる。すでにミュージカルを体験した若者たちが「すぐ〝隣り〟にオペラがある」と親しみを感じてくれる手だてとして有効なのであれば、むしろもっともっと大胆に、新しい日本語上演のスタイルを極めても良いのではないかとさえ思えてくる。


「ラ・ボエーム」は名作中の名作なので、日本の歌手たちも最初はイタリア語でマスター、今回の上演に合わせて日本語でやり直すという面倒な手順を踏んだ。普段から母国語として喋り慣れている言葉だけに、プッチーニのスコアに乗せて歌うのは至難の業に違いない。日本語を外国語としてマスターした唯一の出演者、ウクライナ生まれのビシュニャの繰り出す歌詞が最も明瞭に聴こえたのは、音楽と一体にとらえた客観性の賜物かもしれない。


比較的若い世代の歌手で固めたキャストはアンサンブルの凸凹もなく、アンリ・ミュルジェールの原作小説「ボヘミアン生活の情景」に通じる「若く楽しくも、貧しく残酷な物語」の若者群像を違和感なく再現する。4年前よりさらに声と歌いくちの魅力を増して絶好調の宮里をはじめ、男声チームは全員が美声で演技力もある。イタリアのパルマを本拠に活躍する藤原歌劇団の新星、横前のムゼッタは出色だった。かつて二期会でムゼッタを歌った経験はあるものの、ミミは初役という安藤は最初、声の張りや演技の精彩が乏しく「調子が悪いのか?」と思ったが、全体が死の瞬間からの回想という演出の意図を忠実に汲み取ってのものだったようで、最後は〝お姉さん格〟のプリマドンナのスケールを発揮した存在感、巧みな声のニュアンスで納得させた。4年前と同じ園田と新日本フィルの組み合わせは、淡彩画を思わせる透明で柔らかな色調で歌を巧みに支えただけでなくスピード感もあり、再演の名に値するクオリティを達成した。全体として爽やかさに満ちた上演。結構好きかもしれない。

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