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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

森本隼太から上原彩子へ〜ピアニストに「なる」とは、いかなる命題か考えた。


上原は1980年、森本は2004年の生まれ

5月の新緑にふさわしく、鮮やかなピアノ・リサイタルを2つ聴いた。2022年5月7日の浜離宮朝日ホールは全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)の「十代の演奏家」シリーズVol.20と日本コロムビアの「5STARS」、朝日新聞社とホールが共同で主催した18歳の森本隼太。11日の日経ホール「第522回 日経ミューズサロン」は2002年の第12回チャイコフスキー国際音楽コンクール・ピアノ部門で史上初の女性、史上初の日本人として第1位を得た上原彩子の優勝20周年記念だ。


まだ日本経済新聞社本社ビルが現在の竹橋寄りではなく、大手町側の鎌倉橋角に建っていた1995年。リトアニアのピアニストで義母の名教師ヴェーラ・ゴルノスターエワとともにヤマハの早期英才教育に携わっていたピャトラス・ゲニューシャス(2010年のショパン、2015年のチャイコフスキー両国際コンクールで第2位のルーカス・ゲニューシャスの父)のリサイタルを旧日経ホールで開く話が持ち込まれた。社員としてプロデュースに関わっていた私は、日本の音楽ファンの間で知名度がゼロに等しく、集客に不安のある案件を少しでも成功へと導くため「ヤマハの生徒で将来、メジャーな国際コンクールで確実に優勝できそうな逸材をゲストに招き、何曲か連弾してほしい」と、ピャトラスに依頼した。彼が「それは、アヤコだ!」と即決し、第206回ミューズサロンの舞台に現れたのは岐阜県在住でおかっぱ頭&メガネ女子の中学2年生。お母さんお手製の衣装だけでなく、歯列矯正のブリッジをしていたことまで鮮明に覚えている。ゲネプロを聴いた瞬間、師の目にくるいはないどころか、年長者を凌駕するほどの音の輝きに目をみはった。前々から感じていたものの「栴檀は双葉より芳し」は真実だったと、強烈に実感した、逸材は最初から傑出している。


27年ぶりの「ミューズサロン」では前半にシューマン「幻想小曲集作品12」の8曲全部とリストの「ロ短調ソナタ」、後半にムソルグスキーの「組曲《展覧会の絵》」を弾いた。同じ日の同じ時間帯、東京オペラシティコンサートホールでは1986年の第8回ピアノ部門優勝者バリー・ダグラスが《展覧会の絵》を演奏していた。チャイコフスキー・コンクールの覇者2人が同日同刻、同じ楽曲と向き合っている街なんて、世界で東京くらいしかないだろう。ダグラスの方は会場で配るプログラムの原稿を執筆したが、「元くち入れ屋」としては上原27年ぶりのミューズサロンを優先するしかなかった。最初のシューマンからして「柔らかくロマンティック、時々パッショネート」の流儀にキッパリと背を向け、幻想の奥に潜む精神の様々な屈折の真相を解き明かす視線の鋭さに上原の新境地を直感した。リストのソナタはあまりの強打にピアノが驚いたのか、元々金具の固定が緩かったのか、演奏中に楽器が微妙に動くアクシデントに見舞われたようで、何度か椅子を引っ張って位置を修正しながらの演奏ではさぞ、生きた心地がしなかっただろう。それでもシューマン同様、上原が何か、とてつもなく深く大きな世界を見て弾いていたのは良くわかった。


このアプローチはもちろん、友人の画家にとどまらず、母親と自分自身に至るまでの様々な「死の予感」に貫かれた《展覧会の絵》に対し、完全な有効打となった。最後の曲「キエフの大きな門」を「キーウの大きな門」と書き改めなければならないような世界情勢のなか、上原は一点一画を揺るがせにせず、ムソルグスキーの真相に迫っていく。もはやロシア奏法とかヤマハ、チャイコフスキー・コンクールなどのバックグラウンドの一切を超越し、自身が切り拓いた孤高の音楽の平野を一心に突き進んでいる感じ。ただただ、素晴らしい。


森本隼太を最初に聴いたのは2020年のピティナ・ピアノコンペティション。サントリーホールでラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を岩村力指揮東京交響楽団と共演した時だ。ひょろっと現れた16歳の少年、「角川ドワンゴ学園N高校在学」も今風だったし、おじさんたちの「やり過ぎじゃないか?」の心配をよそに、迷うことなくスポーティーに弾き進む姿に何か、新しい空気を感じた。現在は同校に籍を置いたまま、ヤマハ音楽支援制度留学生として単身イタリアに渡り、「演奏を大きく変貌させつつある」というので聴きに出かけた。


前半はベートーヴェン「ピアノ・ソナタ第13番《幻想曲風ソナタ》」とフォーレ「ノクターン第6番」、ショパン「幻想ポロネーズ」と、幻想曲系の作品を国籍も豊かに並べた。後半のシューマン「交響的練習曲」ではブラームスの校訂が入った1890年の第3版を採用、森本自身が適切と思う箇所に5つの遺作練習曲を挿入した。ベートーヴェンでは演奏意欲旺盛のあまりの「ガチャ弾き」もあった半面、和声やフレージングなど、ヨーロッパの古典音楽の構造に対する視点が急速に芽生えつつある実態をはっきりと示した。フォーレ、ショパンとも、中間部のゆったり歌わせる部分で絶妙のペダリングが繊細かつ多彩な音色の妙を現出させ、「本領はここにあり」と思わせた。後半のシューマンでは音の暴れも消え、より内面の深い部分に目を向けながらじっくり、シューマンの世界を掘り下げる姿勢で一貫、遺作の練習曲の丁寧な挿入ぶりも印象に残る。もちろん細部は異なるが、私は森本の「交響的練習曲」を聴きながら突然、1984年3月18日に神奈川県民ホールで聴いたエミール・ギレリス最後の来日公演(翌年に亡くなった)の同曲の感触を思い出した。旧ソ連の暗い時代に生きたオデーサ生まれのユダヤ系ウクライナ人。私の「最初のピアニスト」でもあったギレリスの記憶が38年後、18歳の日本人の音に触れて解凍されたのは何とも不思議な体験だった。


アンコールのショパン「スケルツォ第2番」では森本の資質と美点が最大限に発揮された。怖れを知らない若者の気負いが芸術の格調を損ねるどころか高め、両端のダイナミックな箇所の切れ味と、中間部の豊穣な歌心と音色の繊細な変化との対比に、ただならないものを感じた。次に聴くのが本当に楽しみなピアニストだ。


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