2019年8月22日。今日は21年前に亡くなった実母の命日だった。かれこれ20年ほど、この時期は長野県松本市の音楽祭(以前はサイトウ・キネン・フェスティバル松本、今はセイジ・オザワ 松本フェスティバル)の取材に1泊か日帰りの日程で車を運転して出かけ、往路の途上で東京都営八王子霊園に寄って墓参りを済ませてきた。今年も同様の計画だったが、お盆明けの都心の高速道路がまさかの渋滞、母には申し訳なかったが墓参を最短で済ませて松本に向かい、開演20分前にオペラ「エフゲニー・オネーギン」(チャイコフスキー)の上演会場、まつもと市民芸術館主ホールに駆け込んだ。20日の初日には題名役のレヴァント・バキルチが不調で降板、カバーの大西宇宙(たかおき)が見事な日本主役デビューを飾ったそうだが、不慮の停電で上演の一時中断を余儀なくされた。オネーギンを当たり役とし、ボリショイ・オペラの日本公演でも絶賛されたマリウス・クヴィエチェンが病気降板した結果の代役がバキルチであり、日本に来てから声帯疲労と音声障害が表面化した。2回目の22日はバキルチが復帰、一応のプリミエ・キャストがそろっての実質初日だった。
ロバート・カーセンの演出はカナディアン・オペラ・カンパニーからのレンタルだが、元はニューヨーク・メトロポリタン歌劇場1996/97年シーズンのために制作、今は亡きディミトリ・フォロストフスキーの題名役、オペラ全曲からは引退したルネ・フレミングのタチアーナ、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮の舞台が松竹の「METライブ・ビューイング」初期の上演にかかった。幕間のインタビューを末期ガンの緩和ケアで元気に見えながら、程なくして世を去ったベヴァリー・シルズが務めていた上演が今も強く記憶に残る。今回の再演にカーセンは来日しなかったが、まつもと芸術館の舞台に載せるとMETの巨大な空間で観る際とは異なる臨場感にあふれ、新たな発見が随所にあった。何より、一見「がらんどう」の空間の多彩な処理と照明の繊細な変化を堪能するには、舞台の近く見える劇場の方がありがたい。
「オネーギンを指揮するのは初めて」というルイージの解釈は、チャイコフスキーのこぼれんばかりの旋律美をイタリア歌劇流のカンタービレとパッションの世界へと最大限に引き寄せて、たびたびイタリアを訪れた作曲者の憧憬すら実感させる優れたものだった。木管や金管のソロを担う世界の名手の貢献も素晴らしく、オーケストラピットが発する音楽には何の不満もない。全力投球の熱演でありながら、音の美観が損なわれる瞬間は一度もなかった。
ロシア歌劇の歌唱と演技の担い手として最も光ったのは、タチアーナのアンナ・ネチャーエヴァと、グレーミン公爵のアレクサンダー・ヴィノグラドフ。ネチャーエヴァは凛とした美貌の持ち主のため、少女時代の「手紙の場」ではやや熟し過ぎた感もあったが、大詰めでオネーギンへの愛情を断ち切り、決然と自分の人生を選択する場面の歌は激しい感情の吐露と気品に満ち溢れ、非常に感動的だった。ヴィグノラードフのようなバスの声、ドイツ語ではティーフ、イタリア語ではプロフォンドと呼ばれる深く底光りのする音色は残念ながら、日本人歌手にはなかなか得られないもので、久々にグレーミンのアリアを隅々まで満喫した。他の外国人女声3人も妥当なキャスティングといえたものの、オリガ役のリンゼイ・アンマンは余りにバンプ女優風で、レンスキーが怒り狂っても仕方ないと思わせるビッチ(悪女)ぶりが役柄を適切に再現しているとは思えなかった。「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」(ヴェルディ)の登場人物、実態は娼館を兼ねた宴会場の女主人であるフローラが経営不振に陥って都落ち、場末のスナックのママになったような雰囲気は、田舎娘とは明らかに異質だ。
かわいそうなレンスキーを演じたイタリア人テノール、パオロ・ファナーレは同じくルイージ指揮の「ファルスタッフ」(ヴェルディ)以来2度目の松本。アクート(フォルテの最高音)を張るところで声の純度が落ちるなど、本調子ではなかったが、母国語ではないロシア語にもかかわらず言葉に情感と真情がこもり、舞台全体に「オペラの時間」を造形する能力には最もたけていた。オネーギンとの決闘に敗れて亡くなる前に歌うアリア、「青春は遠く過ぎ去り」。この場面でのカーセン演出はデレク・ジャーマン監督がエイズの合併症末期で盲目同然だった時点に撮影した遺作映画、「ブルー」(1993)を思わせる青一色の抽象的空間に紗幕まで用い、演技者の具体性よりはシルエットを重視した視覚を与えて逆に、レンスキーの内面を過酷なまでに引き出す。ファナーレの歌は、これを完璧に体現していた。あと道化役トリケを歌った米国人テノール、キース・ジェイムソンはバイロイト音楽祭でミーメ役などを得意とした英国人グレアム・ジョンソンらと同様、超芸達者のアングロサクソン系キャラクター・テノールの伝統?を今に伝える得難い存在だった。
逆に題名役のバキルチは物理的コンディションの不調に振り回されたのか、音程がとにかく定まらず、「ここぞ!」という決めどころが決まらない。その自信のなさが猫背とか、O脚の放置とか、「性格は最悪だけど、セクシーで女を振り回す男」のはずのオネーギンの狂ったダンディズムが全く出てこない。ご本人にも、客席にも、気の毒な結果だった。
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