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  • 執筆者の写真池田卓夫 Takuo Ikeda

昭和&平成の浅利慶太と〝再会〟〜劇団四季の「ザ・ブリッジ〜歌の架け橋〜」

更新日:2021年2月5日


ビルの入口はわかりにくく、劇場とはちょっと違う雰囲気

JR東日本の浜松町再開発で改築再開した四季劇場「春」のこけら落とし公演は、劇団四季68年の歴史を彩ってきたミュージカル、芝居、ショウの名曲を散りばめた90分間ノンストップのメドレー「ザ・ブリッジ〜歌の架け橋〜」。私は2021年2月4日の昼公演を観た。いったいどれだけ泣かせれば気が済むのか?、と思うほど感激し、アンコールの「ダンシング・クイーン」(ABBAのヒット曲で「マンマ・ミーア」のナンバー)では全員スタンディングの1人として、手拍子を打っていた。74歳の初代ジャニーズ、1972年から四季に在籍する飯野おさみの存在は、昭和から平成にかけての日本のミュージカル史の生き証人でもあり、相変わらずの洒脱な歌とダンスに接しただけでも「ありがたや〜」と思ってしまった。


ミュージカルとの付き合いはオペラより長い。劇中にも出たが、東京・日比谷の日生劇場は開場翌年の1964年から四季と組み、子どものための演劇、ミュージカルを無料で提供してきた。私も1970年、杉並区立第九小学校6年生の時に「ニッセイこどもミュージカル」の劇団四季「オズの魔法使い」に学校単位で招待された。それ以前にも東京都児童会館や杉並公会堂で子ども向けの音楽劇を観ていたはずだが、観光バスに乗って「お父さんたちの仕事の街」の中心に出かけ、赤い絨毯と白い大理石の劇場に足を踏み入れ、新進気鋭の劇団が全身全力で演じるミュージカルの衝撃は強烈だった。うんと大人になって、四季の創立者で演出家の浅利慶太さんと取材で面と向かい「あの時の感動が今、オペラの仕事に携わっている自分の原点です。ありがとうございます」と申し上げたら、浅利さんは思わず涙ぐまれた。


「ザ・ブリッジ」にはごく控えめながら、ナレーションが入る。どこ1箇所にも浅利さんの名前や写真は出ないが、内容は明らかに、浅利が創造した日本独自の音楽劇を介した昭和&平成のパノラマだ。長く作詞や訳詞でかかわり長寿を全うした盟友、岩谷時子の仕事もしっかりフィーチャーされる。「越路吹雪ドラマチックリサイタル」のために岩谷が日本語詞をつけた「ラストダンスは私に」を女性ではなく飯野、飯田達郎のデュエットで再現したのは賢明な演出だった。初期の日本ミュージカル史において、越路を超える怪物はいなかった。


「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」の3部作だけでなく、「サウンド・オブ・ミュージック」などの翻訳ものであっても、浅利の基本は現代史の克明な記録と反戦にあった。「劇場は人生を改めて確認する場です」の一言に、ハッとする。自分が四季に触発され、NYのブロードウェイやロンドンのウエストエンドなども含め50年以上にわたり享受してきた音楽劇の体験は、平和な時代の〝配当〟だったと思う。今それが新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的拡大で突然の危機にさらされ、四季も4か月半に及ぶ休演を余儀なくされた。「ザ・ブリッジ」はコロナ禍で心身疲弊がつのる私たちへのエールであると同時に、四季が最大限の感染症対策とリスクを負いながらなお上演を続ける強い意思表明だった。ベテランから新進まで、アンサンブルの隙はない。良い舞台に接した。

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