旧東ドイツ出身の演出家で長く(旧西)ベルリン・ドイツ・オペラ総監督を務めたゲッツ・フリードリヒ(1930ー2000)が1997年、フィンランド国立歌劇場のために制作したワーグナー「リング(ニーベルングの指環)」4部作から、第1夜「ワルキューレ」を新国立劇場が2021年3月、ほぼ5年ぶりに再演した。飯守泰次郎がオペラ芸術監督だった2015ー2017年に自ら「リング」全曲を指揮した際、ヘルシンキから東京へ持ち込まれたプロダクションだ。今回は3つの大きな変更があった。1)指揮の飯守の体調が優れず現オペラ芸術監督の大野和士に替わり、最終日は音楽チーフ&プロンプターの城谷正博が指揮する。大野とピットの東京交響楽団は約30年ぶりの共演。2)新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大の影響で大半の外国人キャストが来日をキャンセル、関西フィルハーモニー管弦楽団で飯守が指揮したワーグナー・コンサートのため滞日中だったミヒャエル・クプファー=ラデツキーのヴォータン以外の全役を日本人が務めた。ヘルデンテノールの難役ジークムントは最終的に第1幕を村上敏明、第2幕を秋谷直之が演じ分ける奇策に出た。3)ピット空間のソーシャル・ディスタンス(社会的距離)を確保するため、管弦楽のスコアにアルフォンス・アッバス(1854ー1924)がドイツのコーブルク歌劇場で1906ー1907年に「リング」全曲を指揮した際に自ら作成した管弦楽縮小版(通称「アッバス版」「コーブルク版」)を採用、管楽器の人数を半数に絞ったーー。弦は第1ヴァイオリン12人の「12型」で、コンサートマスターは水谷晃。様々な制約を抱えつつ、「もう劇場は閉めない」と決めた大野の強い意思を感じる。
3月11日の初日。第1幕はイタリア歌劇の老舗である藤原歌劇団の看板テノールの1人、新国立劇場でもイタリア語と日本語のオペラでしか出演歴のない村上が急な代役で暗譜が間に合わなかったのか、絶えずプロンプター城谷のキューに助けられての歌唱、歌と動きの両面で「演じる」までの状態に至らず、「ヴェルゼ〜!」と絶叫するテノールの聴かせどころも決め損ねた。大野も最初は東響とうまく噛み合わなかったうえ、村上のサポートを最優先、音量を抑えたりテンポを落としたりで「リング」のオーケストラを聴く醍醐味はかなり減じていた。フンディンクの長谷川顕(バス)は2002年のキース・ウォーナー演出、準・メルクル指揮の新国立劇場「TOKYOリング」でも同役をドナルド・マッキンタイアとダブルで歌ったベテランだが、声の威力と音程の両面で往時の輝きが消えている。そんな中、ジークリンデの小林厚子が村上と同じ藤原歌劇団のプリマドンナとしてイタリア物で頭角を現し、まだドイツ語の発音に難があるにもかかわらず、瑞々しい音色の豊麗な声と急速に華を増した舞台プレゼンスで耳目を惹きつけ、第2幕以降への期待をつないだ。村上も声自体は役と合っており、残り4回、公演を重ねるごとに安定度と冴えを獲得していくと思う。
果たして、第2幕では別世界の素晴らしい光景が広がった。クプファー=ラデツキーは歴代ヴォータン歌いに比べればスリムな声と容姿だが、長身を生かしたスタイリッシュな表現と新鮮な雰囲気が日本人チームの中で極端に浮き上がらず、好感が持てる。フリッカの藤村実穂子は日本が生んだ世界的ワーグナー歌手だ。この夜はコンディション万全とはいえず、何か所か「あれっ?」と思わせる瞬間があったのは残念だった。それでもクプファー=ラデツキーともどもワーグナーのテキスト(台本)が求めるドイツ語の口跡と表現を適確に踏まえているから管弦楽との練度が格段に上がり、ワーグナー楽劇の陶酔がよみがえった。二期会会員の秋谷はミラノ留学組ながら、声質はヘルデンテノールといえ、新国立劇場「こどものためのオペラ劇場」シリーズ「ジークフリートの冒険」「パルジファルとふしぎな聖杯」のそれぞれ題名役を務めたり、「魔笛」「サロメ」「ばらの騎士」「ローエングリン」にも出演したりで、ドイツ物への出演歴も豊富だ。びわ湖ホールに続くブリュンヒルデで役柄を手中に収めた池田香織との二重唱も、きっちり盛り上げた。それでも第1幕からの登板は急な代役では無理、ということなのか? ジークリンデの小林も、いよいよ輝く。歌手の健闘以上に光ったのは、大野の指揮。少し前から突然スイッチが入り、「あっち側」へと飛んでいく瞬間が現れるようになった。いつも淡々としているのに、本番中の一点から憑依世界にトランスしたクラウディオ・アバドを思い出させる大野の指揮の魔術には、東響もハマった。
第3幕冒頭、有名な「ワルキューレの騎行」は単独でオーケストラ演奏会にもかかる名曲だけに、アッバス版の薄いスコアの物足りなさを露呈した半面、8人のワルキューレ=ブリュンヒルデの妹たちの歌唱は過去の上演経験者も多く、堅実だった。この後、大野と東響の演奏は熱を帯びる一方で、ワーグナーの「うねり」を存分に堪能した。小林ジークリンデはもはや絶唱の域に入ってドラマティック・ソプラノの大きな可能性を示し、大化けという点では、今回のプロダクション最大の収穫だった。大詰めの父娘の二重唱ではクプファー=ラデツキー、池田の知的に整理され、言葉が持つ情感と意味を繊細かつ精確に伝える能力が全開した。東響がついに放った柔らかくブレンドされたサウンドともども、知日家でもあったフリードリヒの遺作に報いる「東京ワーグナー」の意義ある上演に結晶して、感動的だった。
ただでさえ払底しているワーグナー歌手を東京二期会「タンホイザー」、びわ湖ホール「ローエングリン」、新国立劇場「ワルキューレ」が結果的に奪い合った日程の設定とか、往時に比べて明らかに劣化した日本人歌手のドイツ語歌唱能力とか、オーケストラピットの感染症対策に伴う響きの減衰とか…問題点を挙げればキリがない。半面、これまでイタリア歌劇専門と思われてきた歌手のドイツ歌劇への適性が明らかになったり、指揮者とオーケストラの例外的な組み合わせが斬新な輝きを放ったりで、コロナ禍明け後の日本オペラ界をにらんだ試行錯誤が、それなりの成果や希望を生み始めたことも確かな事実である。「ワルキューレ」は以後、14、17、20、23日の4公演。新国立劇場のフリードリヒ演出をはじめ、日本の21世紀の「リング」上演をまとめた新聞社時代の拙稿を最後に、貼り付けておく:
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO21379210R20C17A9000000?channel=DF280120166618&n_cid=LMNST011
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