2019年のすみだトリフォーニーホール「すみだ平和祈念音楽祭」の中心に据えられた「マックス・リヒター・プロジェクト」と、同ホールもう一つのシリーズ「クリスティアン・ヤルヴィ サウンド・エクスペリエンス」を合体させた「メモリーハウス」を3月5日に聴いた。オーケストラは新日本フィルハーモニー交響楽団。前半のR・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」は昨年のワーグナー「ニーベルンクの指環」管弦楽集と奇妙なほど同じ印象に終始、クリスチャンの深掘りせず「なだらか過ぎる」音楽づくりが裏目に出た。新日本フィルも金管の強奏時、弦がほとんど聴こえない最近の傾向を克服できていない。
後半はリヒター(1966〜)の「メモリーハウス」日本初演。ここで私は、極めて不思議な体験をする。会場で聴いていたときは「ヴェジタリアンの時代の音楽」みたいな物足りなさを感じた。だが帰宅後、リヒターの別作品の新譜2点(ドイツ・グラモフォン=ユニバーサル)を立て続けに聴くと妙に共感。さかのぼってコンサートの状況を反芻したとき、なぜ彼の音楽が今、ヨーロッパで圧倒的に支持されているかの理由の一端をようやく理解できた。
今から30年ほど前のCD黎明期、ロンドンにまだ存在したCDショップ「HMV」でデッカの現代音楽専門レーベルargo(アーゴ)の新譜「グレアム・フィトキン〜ピアノサーカス」が目にとまって即、購入した。その一部が日本で2010年、ユニクロGUのCFに使われた「名盤」である。よくよく調べると、リヒターは6人組のピアノサーカスの創立メンバーという。つまり、初めて向き合ったつもりのはずが30年前、すでに接点を持っていた音楽家だった。今夜もシンセサイザー、ピアノ、チェレスタ、エレクトロ・チェンバロなどの鍵盤楽器を自ら巧みに演奏しながら、クリスチャン指揮の新日本フィル、ヴァイオリンのマリ・サムエルセン、ソプラノのグレイス・デヴィットソンと多彩な響きを重ね合わせていく。
演奏に先立つスピーチで、作曲者は「メモリーハウス」を「政治や社会など、主に20世紀の様々な歴史の反映(リフレクション)の音楽だ」としていた。バッハらバロック時代の音楽へのオマージュもあれば、悲嘆にくれる場面、テクノの感触に徹した音もある。第1曲「1908年のプレリュード」から、はじめてフルオーケストラが全開する第18曲「最後の日々」までの約80分。演奏の雰囲気を盛り上げるため、客電(客席の照明)がかなり暗かった結果、前島秀国さん執筆による個々の楽曲のかなり詳しい説明、朗読テキストの日本語訳を読みながらの鑑賞を断念せざるを得なかったのは惜しまれる。ドイツの厳然たる音楽の伝統、クラフトワークやタンジェリンドリームなどのテクノロック、マイク・オールドフィールドらのプログレッシヴロック、シュトックハウゼンの実験音楽、クラブミュージック、ミニマルミュージック……などなど。リヒターはドイツ生まれの英国育ちというバックグラウンドが可能とする硬軟両面、多様で異質な語法を自身の様式美に統合(インテグレート)して、幅広い層の感性と感情に訴え、「売れる」音楽の立ち位置を得た作曲家である。
うかつに聴くとただのヒーリングミュージックと思ってしまいがちだが、流れ、漂う響きの背後には、リヒターの鋭い知性による「自我」の思弁的操作が隠されている。間口は広く、奥行きは深くというか、誰の耳にも第一段階では素直に届く半面、それぞれが何を感じるかはクラシックの名曲とは比較にならないほどに千差万別で、ものすごく個人的な体験へと帰結する。今の世界を見据え、根底に流れるものは決して明るいとはいえず、仄暗く鋭いと、私には思えた。「メモリーハウス」の演奏が終わって以後、延々と続く拍手が肯定のニュアンスをたたえつつも、「コバケンのチャイ5」的な熱狂やうねりに一元化せず、個別散在的な不ぞろい感を抱えたままだったのが、共有体験とは異なる受容のあり方を物語っていた。
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