私は井上道義がショスタコーヴィチを指揮する際、インタビューをする「係の者」となってしまったようだ。あのほの暗く、人生の深淵を見透かすかのような音楽に向き合いつつなお「演奏会は楽しくなければならない」と主張する73歳の井上が21年ぶりに神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会に現れ、ショスタコーヴィチの「交響曲第14番《死者の歌》」を横浜で超シリアスに奏でた翌日、34歳の原田慶太楼が名曲中の名曲とミュージカルの傑作を大井町で新日本フィルハーモニー交響楽団をご機嫌に指揮するのに接し、音楽とは、指揮者の果たす役割とは、オーケストラの醍醐味とは…何かを真剣に考えてしまった。
井上道義が指揮した神奈川フィルハーモニー管弦楽団第356回みなとみらいシリーズ定期演奏会(2020年2月8日、横浜みなとみらい大ホール)は2曲とも管楽器なしの思い切ったプログラムで前半がビゼー〜シチェドリンの「カルメン」組曲、後半がショスタコーヴィチの「死者の歌」。後者の独唱にはテオドール・クルレンツィスお気に入りのザリーナ・アバーエワ(ソプラノ)、エフゲニー・スタヴィンスキー(バス)が招かれた。ロシア語歌詞の対訳が投影され、11楽章それぞれのタイトルは毛筆で描かれたが、井上が「書家」と紹介した「オオヌキアツシ」とは井上の所属マネジメント、kajimotoの社員である大貫篤氏であった! 終演後、井上がわざわざ大貫氏を呼び寄せて労をねぎらう場面まで目撃して、つくづく優しい人なのだと思った。プレトークでも、神奈川県が推進する「いじめ」撲滅のリボン・キャンペーンの協賛公演であることに突然と触れ、井上の少年時代の思い出を語り出すなど、とにかく、一つの演奏会で時間を共有するオーケストラの楽員や聴衆の全員、それを支える社会全体に注ぐ愛情のヴォリュームが半端ではない。
結果、シチェドリンは「カルメン」の華やかさを超えた精神世界の音楽となり、エーテルのごとき形而上の響きが聴く者を白昼夢の世界に誘う。「死者の歌」もあまりの求心力に、風邪の季節で咳が頻発するはずの客席が静まりかえった。最近好調の神奈川フィルとはいえ、これほどまでに磨き抜かれ、含蓄に富む響きのニュアンスを聴かせる機会は滅多にない。「神奈川フィルも上手になったでしょ?」と終演後に声をかけると、マエストロは「ものすごく練習したからね」と答えた。関係者によれば、本当に徹底したリハーサルだったようだ。バスのスタヴィンスキーは期待通りだったのに対し、ソプラノのアバーエワは危なっかしく、本番でようやく「終わり良ければ全て良し」の歌唱となったらしい。全員の思いが井上の究めたショスタコーヴィチのもとで1つとなり、それぞれの日常より何段階か上の音楽に結晶したのは確かだ。客席の驚きと熱狂も凄かった。極度の緊張を強いられながら、最後に「良い音楽を聴いた」と思える状況もまた、楽しさのあり方の1つなのではないか。
翌日(2020年2月9日)、大井町の「きゅりあん品川」大ホールで原田慶太楼が指揮した品川文化振興事業団&東京文化会館主催「フレッシュ名曲コンサート」の担当は新日本フィルで、本人が品川区出身のため「凱旋公演」と銘打たれた。2014年暮れに同じホールで新日本をフィルを指揮したのが実質の日本デビュー、という伏線もあるそうだ。17歳で日本を出て欧米で研さんを積み逆輸入の形でデビューしたが、日本でもインターナショナル・スクールに通っていたので、まるっきりのコスモポリタンといえる。オーケストラ関係者の話ではリハーサルの手際が非常に合理的で「枠を使いきることも通しで演奏させることも余りなく、難所だけを丁寧に確認、本番まで緊張を引っ張る力がすごい」らしい。どうりで「売り公演」(楽団主催ではなく外部の依頼に基づく公演で通常、リハーサル時間は定期演奏会より短い)のウルトラ雑多な曲目にもかかわらず、持ち前の推進力、溌剌とした表情は見事に保たれていた。J・シュトラウスⅡのワルツ「南国のばら」でも、ことさらウィーン風を真似するわけでもないのに、すこぶる精彩に富む音楽に仕上げていた。
後半のミュージカル・パートでは、ソプラノの種谷典子がレッジェーロ(軽やか)の美声で鮮やかな華を添えた。クネコンデもイライザも達者だったが、アンコールで歌った「ロミオとジュリエット」(グノー)のジュリエットのアリア「私は夢に生きたい」では、オペラ歌手の本領を十全に示した。終演後の楽屋でご挨拶して、やっと気がついた。昨年、私が福島県白河市で企画した「福島3大テノール」のコンサートに出演した1人、小堀勇介に同行してきた奥様が種谷だった! オペラ歌手、特に女声では往々ありがちだが、日常と舞台の顔が全く異なる。その落差が大きければ大きいほど舞台人としては有望な気がするので、種谷の今後にも大きく期待しよう。原田はオペラ指揮に情熱を燃やしているだけに、同じ音楽劇であるミュージカルの名作にも並々ならない情熱を燃やし、新日本フィルを熱くドライブした。アンコールはJ・ウィリアムズの「ロサンゼルス・オリンピックのファンファーレ」。徹頭徹尾、本人もオーケストラも客席も楽しめるサンデーマチネーに仕立てたのは立派だ。
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